考えの一致について

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(訳注:本章タイトルは「考えの一致」だが、「偶然にも同じことを考えていた」というニュアンスがある)

 多くの読者や視聴者諸兄が、彼らの頭にあったことと同じ事を僕が書いたり話したりしている、と言ってくれる。多くの人々が、提示した同じ考えを、時には同じ形で、時には違う形で、考えていたという。ある一冊の本の多くの読者が、そこにあるテーマと同じ事を考えていたという。そして同時に、その話について以前から考えていた人たちが、その本を読んで喜んでくれている。僕の考えに。自分たちについて、彼らの代わりに、公衆に向けて語ってくれている人がいる、と感じられるからだ。大事なのは、彼らが自分たちだけではない、と感じることだ。最も聡明な人でさえ目を回す巨大で広大な世界の中で、孤独ではなくあるグループの一部だと感じることだ。そのグループには名前もなく、メンバーも互いに知らないとしても。
 このことには、「考えの一致」について考えさせられた。どうして人々に同じ考えが浮かぶのか。この問いに答える前に、原則として言っておきたいのは、この互いに異なる人々は、それでも性質や本性において、似ているところが相当ある、ということだ。同じ生き物で、同じ仲間の、人間なのだ。状況は異なるが、本性や根本のところは一つだ。
 考えの一致が起こるのは、人々の暮らしている環境が似ていれば、考えも似てくる、ということなのかもしれない。例えば現代エジプトに住む人々は、誰が次の大統領になるのか、という問題について考えている。民主主義、人権、汚職、交通渋滞、等々。あるいは、もう少し広く考えるなら、現代の世界に住む人々は、人口増加、食糧危機、エネルギー危機、経済危機、地球温暖化、地球の未来などについて考えている。似ている環境のがあれば、考えも同じ子宮から生まれ、互いに似ているというわけだ。
 もっと深く考えるなら、もとより本性は似通っていて、状況も似ているなら、より決まった考え方に向かっていく。そういうことが、僕と僕の読者や視聴者(もちろんこれはただの例えだが)の間に起こった考えの一致の原因かもしれない。僕たちが毎日聞く話には、失敗、不正、挫折、抑圧、横領、腐敗、堕落、その他汚いことが溢れている。そして(例えば)僕のような者が、(例えば)真実や善や美について書き、同じ事を求めている皆さんが読めば、そこに一つのものを見出し、自分たちは孤独じゃない、頭がおかしいのでもバラバラでもない、問題は自分たちにあるんじゃないんだ、という感覚を抱けるだろう。
 社会が置かれている状況というものは、そこに組み敷かれている人々に大きく影響する。外からでも明瞭に見て取れるほどに。多くの人々は、自分の考えは自分のものであり、自分で作り上げたものだと思っている。しかし僕の考えでは、実際のところ、ほとんどの人々の頭の中にあるほとんどのものは、環境によって知らない間に強制されたものだ。大方においてこれが考えの一致の原因だ。一つの現実は一つの大きな影響を人々に与え、考え方も似てくる(もちろん似ている度合いは様々だが)。
 考えの一致は、実際的な問題についても考えられる。アインシュタインは、相対性理論を見出した最初の一人ではなかったのかもしれないし、最後の一人でもないかもしれない(彼の前に生きた人であれ、後に生きた人であれ、アインシュタインを読んだことも聞いたこともなかった人が、見つけているかもしれない)。同じ考えが浮かんだ人が必ずいるだろう。スコットランド人のグラハム・ベルが電話を発明した時、同じ時に同じことを考えていた学者が二人いた。アメリカ人エリシャ・グレイと、イタリア人アントニオ・メウッチだ。彼らは、1876年のベル以前、それぞれ電話を発明していた、という話もある。彼は他の二人より運が良かったということかもしれない。その他に、エジソンを含む多くの科学者たちが、音の有線伝送についての多くの重要な実験を行なっている。
 言いたいのは、ここでも一人だけが考え付いているのではない、ということだ。大勢が思いついている(間違いなく実際に作り出した三人よりもっと多くが)。実現に至ったのでも一人ではなかったのだ、何人もいたのだ(しかし周りの状況は似ていた、彼らの中にナイジェリア人はいなかったし)。
 こうしたことを考えると、様々な考えが常に存在しているのだ、時を通じてそれはあるのだ、と考えさせられる。創造の始まりから何百万年にもわたり、もちろん程度は様々だが、そこに手を伸ばすことができる知性がたどり着いた。だから、考えの一致というのは起こるし、古い文明の考えには(互いの連絡がなかったにも関わらず)似通ったところが常にあるのだ。例えば、神々という考えは、それぞれの神がそれぞれの仕事を担っている、というものだ。農業の神、戦争の神、愛の神、等々。死の神聖化、社会的関係。歴史を通じ、大陸や大洋を隔てて暮らす人々の間で、常に非常な類似性があった。これもまた、学問であろうと宗教であろうと社会であろうと、同じ生から考えを得ているのだ。すべてを同じ一つの源泉から得ているのだ。しかしその考えは、常にそこにあったのだ。人間が創造しているのではない(この言葉の深い意味で)、そこに到達し、その源泉を発見し、そこから考えを取り出したのである。
 物質的な事柄について、少し違った形でこれを言うこともできる。例えば鉄。大地が創造された時から、鉄はあった(人間が暮らし始めるよりずっと前から)。しかしこの間ずっと、人間は鉄に対して準備が整っていなかった。やがて時が訪れ、準備が整い、鉄を発見し、それを成形することを学び、道具や武器などを作った。しかし鉄は常にそこにあったのだ。石油然り、天然ガス然り、太陽エネルギーや原子力も然り、すべて同様だ。
 重要な発明それ自体についても、起こるべきして起こったように、僕には感じられる。人間が自身で作り出したものであるにも関わらず。最初の建築物、最初のエレベータ、大砲、戦車、電話、果ては原子爆弾に至るまで、常にそこにあったのだ。それが可能でる、という意味で、そこに存在した。すべての物質を形成する原子核は、(この世が創造されたその時から)この凄まじい力を生み出すことが可能であった。それをいかに取り出すのか人間が学んだ時も、取り出すことが必要になった時も、放射性物質を自然の中に発見した時も、準備が整った時も。相手との競争を好み、抜きん出て、能うる限り打ちのめそうとする人間の性向も、創造された時から存在した。爆弾を投げ込んで何千人もの人々を殺すのに躊躇しない類の人々も、人間の創造以来存在した。最後ではあるが重要なことに、原子爆弾を作り出すことが可能な形で、人間の脳というものも存在していた。すべてが最初からあり、ただ時が満ちた時に(それを扱うことのできる人々の手によって)光の下に取り出されたのだ。
 知は常に存在する、という考えは、僕の中では、神は常に存在する、ということと結びついてる。彼こそが創造主であり、彼こそが最初にあられる。しかしある者たちは否定し、ある者たちは探し求め、ある者たちは神を知り、ある者たちは神に仕え、ある者たちは神への愛のために出家し、ある者たちは宗教で稼ぐ。神は動かないままだ。すべての人間は、どう振る舞い何を見るかにより、これらやその他のいずれかの段階に到達する。ある者たちは、最初の段階に到達した時点で試みをやめ、別のものたちはより遠くの段階に至るべく旅を続ける。アッラーは不動で永遠で変わらないのに、人間たちは多くの様々な変わり続ける方法でそれを眺める。
 ここまで至りついたロジックが正しいなら、これに従って(もしそうしたいなら、だが)、考えは常に永遠に存在する、というところまで辿っていくこともできる。というのも、知識はアッラーの印の一つなのだから。知識はアッラーに依るのだから。そしてアッラーへ永遠である。アッラーこそが、唯一にしてすべてを知悉される御方だ。例えば、台座の節を見てみよう。{かれの御意に適ったことの外、かれらはかれの御知識に就いて、何も会得するところはないのである}。{かれの御知識}なのは、すべての知識はアッラーに依るからだ。しかし僕たちは、すべての知識に到達することはできない。ただ「知識のうちの一部」に到達するだけだ。この知識の段階にも、アッラーのお望みによってのみしかたどり着けない。知識は神のもとにあり、考えは神のもとにあり、神が決められるより他に人間には手が届かないよう、封じられている。扉が開き人が入れるようになるというのは、人間が今できる範囲のことを手にするということだ。再び開くというのは、違う状況にいる違う人が、別のものを手にして別のことを為す、ということだ。一つの形を成すまで、この世を将来に至るまで手中にしていると思っているこの傲慢な生き物がたどり着くまで。
 これは、僕の個人的な難問を解いてくえるかもしれない。人間の重要な発見の時期について、解き明かしてれるかもしれない。つまり例えば、電気は大地の創造以来存在したが、時が満ちるまで人間は発見することができなかった。現生人類が少なくとも二万年生き、火や馬や駱駝や船や古代戦車を使い、それから百年ばかりで、電気を飼い慣らし、蒸気船、動力船、電話、自動車、ミサイル、人工衛星、人工知能、何ヶ月も海の底にいられる原子力潜水艦、インターネット、その他身の回りにあるすべてのものを作り出した。
 もちろん依然として、神が望む時に人間に対して開く知識の窓などというものはない可能性もある。時を決めているのは、知というのは積み重ねで、結果に到達する時が来ては、またしばらく新しい試みと知識が積み重ねられ、新しい段階の新しい局面に至る、という具合に。悩み深い問題だが、僕個人としては、第一の選択の方に傾いている。なぜなら、何も起こらない時期が長く続いた末に、多くの違いが短い期間に現れる、ということが、多すぎるからだ。
 加えて、例えば電球や冷蔵庫や自動車や電報や電話やその他何百もの発明の凄まじい重要性については、それが起こらないなどということは不可能だという気持ちになる。これらのどれをとっても、偉大な影響を世の中にもたらした。永遠に残るような影響をどれほどもたらしたことか。それが創造主の計画の一部でなければ、どうしてこのような変革があり得ようか。これらが甚大な影響を及ぼしたのは、その創造主が創造した世界なのだ(時にはその影響が否定的影響であるにせよ)。人間はその運命の上を、ゆっくりと慎重に統御されながら歩いている。間違いなく予め知られているのだ。
 巨大な都市が建設されることも、オゾン層に穴が開けられることも、地球上の人類の人口が69億人に到達し、その半分が酷い窮乏に陥らないでいるのも、そうでなければあり得ない(1803年には10億人、1927年には20億人、1960年には30億人、1974年には40億人、1987年には50億人、2011年には70億人となり、2025年には80億人になる)。
 最初に人類の人口が一定の数に到達するや、この地球の上の人間たちが二世紀の間に八倍のもなったのだ。計画の一部として、ある運命に向かっていく歩みのように。僕が思うには、この計画には知識の窓がぞれぞれの時に人間に対して開かれることも含まれている。その命運にたどり着くのを助けるように。
 ここで自身に問いかける問いがある。もしすべての知が、すべての詳細とそこに至るすべてに渡り、本当にアッラーに依るものなら、主はそもそもなぜ知や知識の扉を、多くの不信仰者たちに対し開くのか。もちろん決定的な答えなど持ちあわせていない。しかし僕にとって筋の通るのは、「それはそれ、これはこれ」だからだ。もし知と知識の鍵を持っているのが人間だったら、おそらくこう考えるだろう。「なぜわたしを否定するものに、わたしの知識を分け与えたりするのか」。しかしアッラーは違う。アッラーは人間のようではない。アッラーは働くものに報奨を与えられる。その骨折りに応じて。信心や不信仰は、僕にとっては全く筋の通ることに、主の報奨や罰に値するが、知と知識の鍵を持つその同じ神の創造した世界は、別の法則もまた存在するのだ。耕す者は収穫し、苦労するものは見出す。不信仰者が耕しても収穫できないか。そんなことはない。そこに至るための代償を払う用意がありそう望むものであれば、たどり着くだろう(もし環境が整っていたなら)。信仰者であることは、全く条件ではない。そもそもアッラーを信じてない人間のどれほどが、才能に恵まれ、知や考えにたどり着き、発見し素晴らしいことを成し遂げてきたことか。成功の分かれ目になるのは、欲求と純真さと能力であり、信心のあるなしではない。知識の源泉は(僕の信じるところでは)すべて神であるにも関わらず。その神を信じない者がその知の多くを得ている。なぜなら、アッラーは公正だからだ。公正さ故に、骨折るものには与え、そうでないものには与えない。
(この問題が長い話になるのは分かっている。しかし望むままのところに行くにまかせよう。おそらく辿り着くだろう)