僕は一人で、他の誰とも抱き合わせではない

 もし目の前にコンピュータがあり、ネットにつながっていて、10分30秒ほど時間が空いていたら、このビデオを最初に見て、それから読んでみて欲しい(名作『ブルジョワのファウジア』の一部)1。あるいは「ブルジョワの」とyoutubeで検索して、最初に出てくるやつだ。
 社会主義者か、資本主義者か。リベラルか民主主義者か保守主義者か。プラグマティストかロマン主義者か実存主義者か。宗教について考えてみよう。ムアタジラ派かどうか。世俗主義者や社会主義者や共産主義者は無神論者なのか。世俗主義者や社会主義者や共産主義者で、かつ信仰者でることはないのか。もしその中の一つだけだったら。右翼か左翼か、それとも左右両方派か。
 ある思想で一致した集団を指すのに、多くの言葉が使われてる。僕は子供の頃から、この手の言葉が分からないと、誰かに聞いたり辞書で調べたり、インターネットで調べたりしていた(インターネットがあるようになってからは)。そして意味が分かると、なんだか嫌な気分になった。今ではこの嫌な感じの理由が分かってきた気がする。
 人間をグループに分類するこの方法の基本的な長所(唯一の長所かもしれない)、一から始めないで済むことだ。先人たちの続きのところから始めればいいのだ。例えば、思想の自由を信奉している人がいるとしよう。そう言っておけば、一から思想の自由を定義し、その条件や原則や目的やらを決めないで済む。そのまま直接、思想の自由を信奉する思想集団、例えばリベラル主義者とかのところに入っていって、「僕も皆さん同様、リベラルなんですよ」と言えばいい。そうすれば周りの人達は、僕の考え方とか信念について、自動的にいくらか理解できたことになる。良いことかな? まぁ良いことと言っておいてくれ。では問題は何か。問題は、リベラルなる考え方が(ただの例えだが)、一つのものだとみなしてしまっていることだ。分類というやり方は、すべてのリベラル主義者が同じすべてのことを信じているように扱ってしまうが、これは正しくない。あるいは少なくとも、これも僕の考えでしかないが、正しくてはならない。
 この分類法は、サッカーなら役に立つだろう。サッカーというのは白か黒、アフリーを応援するかザマーレクを応援するか、だからだ2(ちなみに、いかにアフリー派性やザマーレク派性を実行するかは、これもまた決まっているわけではない。スタジアムでの試合を見逃さないか、暇なときに見る程度か、レンガを投げるくらいか、車を壊すくらいあ、マクハーで見るくらいか3、「敵」とは友達にならないくらいか、それぞれにそれぞれのやり方がある)。
 しかしその他の、イデオロギー的な思想分類は、白とか黒とかいうものでは全くない。例えば、社会主義だろうが資本主義だろうが、どんな経済制度にも中くらいというものがある。両方いっぺんだけれど、どちらか一つにちょっと傾いている、ということもあり得る。まったくの資本主義で、投資や商業を奨励し、人々が多いに稼げるけれど、それから大いに税金を取り上げて、気前よく貧窮者に分け与えるとしたら、同時に社会主義的でもある。両者を分かつ太い線がどこにあるというのだ。
 また例えば、倫理的でないリベラル主義者がいたからといって、すべてのリベラル主義者がそうであるとは限らない。保守主義者が古いものを尊重しエリート主義的傾向があるとしても、保守主義的であるのに、エリート主義的であらゆる新しいものを嫌っている必要はない。リベラルな保守主義というのもあり得るし、先人の到達した文化的遺産については保守的だが、思想の自由については否定せず、他を拒むこともなく、異なることについても権利を与え、他人の意見を禁じず、貧窮者を嫌うことなく助ける、ということもある。これでもう第三の状態だ。
 政治の世界を眺めてみれば、ゆっくりとだが、こういう形の分類という方法の欠点が明らかになっていっている。分類を増やすことで、これに対処しようとし始めている。右翼、左翼だけではない。中道右派、極右、中道左派、極左、といった具合だ。本当のところ、政治家たちが分類を必要としていて、そうせざるを得ないのは分かっているのだが、僕は政治家ではないし、やむを得ない事情もない。
 僕にとって分類の基本的な問題の一つであるのは、僕がある思想の信奉者で、何らかのグループ(その考えを信奉している)に参加したとすると、彼らの考えを伝染され、その色に染められてしまうかもしれない、ということだ。もし良いものが「感染」するなら大歓迎だが、短所の「感染」なら問題だ。例えば、他の考えに敵対的な極端な考えや方法をとる人々に加わると、その過激さが伝染してしまうかもしれない。そうでなければ、バランス良く中庸を歩み、彼らの考えを取り入れると同時に、他の人々(前の人々が敵とか競争相手とみなしていたり、あるいは単に自分たちとは違うと思っている人々)の考えもとることができたかもしれないのに。
 僕は、最も極端なグループにも穏健な人はいるし、最も腐敗した集団にも清廉な人が、最も清廉な集団にも腐敗した人がいる、と信じている(別に倫理的な腐敗とは限らない、知性における腐敗かもしれないし、独裁的、独占的な腐敗かもしれない。例えば知性を封じてしまうというのは腐敗だ。僕はそう思っている)。しかしそれでも、この世のほとんどの人は、自分たちの考えに固執し権威を求める傾向がある、と思う。他を否定し、どんな相違も敵対的に受け取ってしまう傾向がある。例のアフリーとザマーレクのような考えを、ただ純粋にというのみならず、熱狂的に愛してしまう。僕たちとあなたたち、あの人たちとこの人たち、僕たちと彼らとあなたたち、と、分割してお終いにしてしまうのだ。
 一般的に言って、敵対関係を作り出すこの分類というやり方の最大の欠点は、違う集団の考え方や意見にある良いところを活かせなくなってしまうところだ。集団Xにある問題を解決する手段があっても、集団Yがこれを拒む、ということは大いにあり得る。単に敵とみなしている(自分たちとは違うと見なしている)グループの考えだというだけで。本当のところは全く似たような人々なのに、要するに違うイメージを抱いているということだ。つまるところ、常にこのイメージを見ているのか、変えることができないのか、あるいは変える必要が生じた時にはそうする能力と勇気と知恵を持っているのか、ということだ。そうすれば頭はすっきりし魂は健全になり、やり遂げることができる。
 どうして人々はグループに別れて、どのやり方が良いとかやりあうのだろうか。そもそも人間はそういう風にできている、ということかもしれない。人間の歴史をざっと眺めてみれば、狂信や部族、血族、宗教、宗教、宗派、国家、果ては好きなサッカーチームに至るまで、酷いこだわりを持つ傾向があることがすぐに見て取れる。敵を作り、自分の考えや帰属性に狂信的になるよう、創造主が創られているのだろう。ここで終わりにして、そういう風にできているのだ、そういうものなのだ、で済ますことも大いに可能だ。だがまた同時に、人間は本性からして利己的で強欲で貪欲だが、それでも自らを律し変え調子よく整え、社会の中で生きる公正な人間となり、周りの人々に愛されうまくやっていくことができる、ということも可能だ。
 「真理には多くの顔がある」。この言葉が人の心に入れば、相手を許し、その意図を信頼し、成功を求めていることを信じ、互いの間にある違いとは、方法論的な差異や見方の違い、信じていることの違いであると理解するだろう。その為に違うみちを違う方法で歩んでいるのだ、と(目指す地点は同じである、ということが大いにあり得るにも関わらず)。
 これらすべて観点からして、僕は分類やレッテル貼りというのが嫌いだ。自分のことを、アフマド・アル=イシーリーという名以外で呼ばれたくないし、自身の考えを信じている。もちろん理屈からして、修正の余地はあるが。知っているものでも知らないものでも、他人の考えの罪を負いたくはないし、自分がやってもいないことで評価される気もない。
 ジャン=ポール・サルトルは「わたしはいかなる分離にも属さないし、属したくもない。しかしそれに実存主義者という名をつけるなら、わたしは実存主義者ということになるのだろう」と言った。これはサルトルだ。片や僕は、皆んなが実存主義者と呼ぶ人を実存主義者と呼ぼうと、自分の名前以外を名付けられる気はない。僕は一人で、誰とも抱き合わせではない。孤独を求めるのでも、自分は違うと言いたいのでもなく、ただ自由が欲しいからだ。
 覚えてもらいたいが、僕は人間で、人間は他のすべての被造物と同じく、一人でこの世にやって来て、一人で去っていくのだ。ただ一人で。

  1. youtubeへのリンクが示されているが、この動画は既に削除されている。 []
  2. アフリー、ザマーレクはエジプトで人気の二大チーム []
  3. マクハーはアラブの伝統的な喫茶店で、エジプトではアホワという。男性の社交場であり、アホワに集まってみんなでサッカーを見る、という場面がよくある []
スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする