やってみる、ということについて

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 誰かが僕の仕事に感謝してくれた時、こう答えるのが好きだ。「やってみているだけです、ええ」。僕の小さな娘は、この言葉を正しく使える。もしかすると、最初にしゃべり始めた時からかもしれない。僕がこの言葉が大好きなせいだ。これこれができない、と彼女が言うたびに、僕は「まぁ、やってみなよ」と言う。手伝って、と言われれば「やってみなよ」と言う。線の中に色を塗ってごらん、線の上に書いてごらん、両足でジャンプして縄跳びしてごらん、背伸びして電気を消してごらん、まぁやってみなよ。もし本当にやろうと頑張ったのなら、できたかどうかは重要じゃない。
 「やってみる」という言葉がとても気に入っている。やってみる、というそのこと自体が、素晴らしいことだ。というのも、もし力の限り、知恵と能力と忍耐の限りを尽くしてやってみたのなら、そのことは、もしも失敗した場合に、それがその人のせいではない、というための唯一の保証となるからだ。やるべきことを為したのだ、という証だ。
 やってみる、ということが素敵なのは、そこにこそ、そしてそれによってこそ、人類の積み上げてきたものがあるからだ。何であれ偉業を成し遂げた人々が、もし十分に「やってみる」ことをしていなかったら、その偉業もなかっただろう。そのように人間は創られているのだ。より良くしようとやってみなければ、良くはならない。そうなるようにやってみなければ、そうならない。
 「やってみる」ということの筆頭なのが、発明家たちだ。自分の考えからして出来るはずなのだけれど、まだできていない。そういう時、唯一無二の解決策は、やってみるということだ。千回も二千回も一万回も死ぬまでやってみて、最後にとうとう実現する。もちろん、さんざんやってみた末できなかった人の方が、やってみて最後にできた人たちより多いだろう。それでも、初めからやってみもしなかった人たちよりずっと幸せだろう。
 スポーツも「やってみる」ということに尽きる。大人でも子供でも、スポーツを始める時はゼロからだ。学ぶことが沢山ある。やってみてやってみてやってみて、しばらくすると、ふと出来るようになっているのだ。やってみればみるほど、より上手になっている(もちろん、ヒーローになるには才能も必要だ。好きなだけじゃダメだ。でも才能あるヒーローだって、十分にやってみなければ、ヒーローにはなれなかっただろう)。こういう種類の「やってみる」を練習と言うのだけれど、ここでは「やってみる」という言葉の根本の方に話を戻そう。
 どんな形であれ、自分を変えるには、「やってみる」ことだ。「気が短いけれど、でもやってみよう」。そして心穏やかでいるよう頑張っているうちに、多少良くなっている。別に冷静沈着でまったく心動じないほどクールになる必要はない。大事なのは、マシになるということだ。
 「やってみる」という考えが好きだし、その言葉も好きだ。これ以外にない、と思い込んでいる人たちが嫌いなのも、「やってみる」が好きなせいかもしれない。「これ以上どうしようもなかった」という言葉が嫌いだ。だから「やってみる」のだ。
 以前は、将来の希望と言ったらいつも単純なもので、より良くなりたい、というだけだった。今は少し違ってきた(もしかすると同じなのかもしれない)。僕は常に「やってみる」者でありたい。
 自分についても皆さんについても、「やってみる」者であることを願っている。決して手を抜かず、決して絶望することなく。