世は窮する者に与えず、について

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 どうしてこうなのだろう。
 もちろん、「世」は別に何もしない。分かってる。言いたいのは、世の中がそういう風にできている、ということだ。主がそのようにお創りになったのだろう。世は窮する者に与えない。
 波のように不幸が押し寄せ、飢える者は飢え、貧しい者は着るものもなく、孤独な者は一人のまま。居を追われし者は千万の兵に囲まれる。ほとんどの人々にとって、人生はまるで安らぎのないものだ。
 どうして人生はもっと簡単でなかったのだろう。これこそ、多くの人々にとって天国が素晴らしい理由かもしれない。天国は素晴らしく暮らしやすく、天国に牧場に絹織物、川にミルクに蜂蜜、安楽な場所なのだから。人生はかくにあらず。ここに鍵があるかもしれない。もし人間がもっと暮らしやすいところにいたら、誰も他のものなど欲しがらないだろう。あるいは、人生はこうだからこそ、味わいがあるというものかもしれない。
 もし望むものがすべて手に入るなら、それはうんざりするというものだ。欲しいものを散々探して、遂に手に入れた時は、心も踊ろうというものだ。もし求めるものがすぐにあるなら、待って待ってこころ焦がれて手に入れたような歓びはないだろう。心も踊らない。
 それでも、窮する者が与えられないというのは、おかしなことだ。
 持てる者には幾らでもものがあるのに、死ぬほど求めている者は本当に死んでしまったりするし、それでも尚手に入れられない。もちろん、これが唯一の法則というわけではないし、色々な経由で人はものを手にするが、それでもこれは一つの法則ではある。何かを求めて生涯その後を追い、手に入れた挙句、他のものが欲しくなったりする。他のものが欲しくなって、それは決して手に入れられないのだ。
 例えば、物凄い急いで出かけないといけない時に限って、鍵が見つからなかったりする。どうしてだろう。確かに急いでいると、頭がよく回らないちうことはある。それにしても、こころのところは、鍵があるべきところにないというものだ。
 もしかすると「世」は、何かを死ぬほど求めたりするな、と教えてくれているのかもしれない。そういうものは向こうから来るもので、手に入れようとすると適わない、というわけだ。あるいは、世が窮する者に与えないのは、そいつらが嫌いだからかもしれない。クレクレと五月蝿いヤツが好きではないのだ。そういう浮ついたのはお気に召さないのだ。女の子と一緒だ。浮ついた男はダメ。どんと構えるのが一番、と女たちが教えてくれている。
 おそらく、本当にそうなのだろう。それなら「世」さんよ、僕は何も求めない。ただ安全と健康、心の安らぎ、子供たちの幸せ(と学費)、それだけだ。ただ本を書く度に皆が何百万も払ってくれることとか、テレビに出れば他の番組が羨み、ラジオに出れば珠玉の言葉を一つも聞き漏らすまいと皆が車を停める、それしか望まない。ただ歴史が僕を良く語り、生きている時も死んでからも、子供たちが僕の名を誇りとすることしか望まない。古くなった車を買い換えても、まぁその方が気分がいいからだ。思い通りの家を建てたとしても、ハッピーになるためだ。ちょっと多めのキャッシュが銀行にあっても、もしもの時に備えて安心したいだけだ。
 ほら、君に求めてるものなんて何もないだろ? どうして何も与えてくれないんだい?