人々を信じることについて

 間違いなく、人が恐れているものというのは一緒ではない。僕に関して言えば、生きることが怖い。生きている間ずっと続くのだから、これは本当に怖い。自分が勇敢で強く信仰心があると感じることもあるにはあるが、それでも生きることは怖い。
 生きることが怖いのは、自分の持つすべて、自分の愛するすべて、自分のものだと思っているすべてが、ほんの一瞬かもっと短い時間でなくなてしまうかもしれないからだ。その考えに取り付かれると、何も信じられなくなるくらい恐ろしい考えだ。子供たちについて、悪いことが起こるかもしれないと思って、どうやって彼らを見るというのだろう。別に難しことではない、簡単だ。いかなる瞬間にも予告なく変転するかもしれない変わり続ける世界の中で、いかにして信仰を感じられるか、ということだ。
 お金が安全を守ってくれると考える人もいる。僕はそれほど金持ちだったことはないが(されどアッラーに讃えあれ)、確かにお金が沢山あれば、安心できるくらいのある種の安らぎが得られるかもしれない。しかし僕にとっては、偽物の安心であって、本当の安心ではない。なぜなら、僕にとっての完全な安心というのは、何一つ悪いことが起こらないと確信が持てて、仮に起こっても全然何でもないものだ、と思えることだから。もちろんそんなことは、この世のすべてを手にしていても不可能だ。
 ガラス細工のような世界で、壊れゆくものを恐れずにいられようか。
 ことがややこしいのは、失われる原因になるのは、運命とか自然とか他人のせいだけではない、ということだ。自分自身のせいかもしれない。生涯正しい判断を下してきて、気を抜かずよく観察し、すべて思い通りになっているとしても、たった一つ愚かなことを決めるだけで、すべてが失われ、積み上げてきたものが台なしになってしまうかもしれない。すべてが変わってしまう。たった一つの決断で、一瞬にしてすべてが変わるかもしれない。しかも、自分自身以外に責める相手もいないのだ。
 別に怖がらせようっていうんじゃない。本当に脅かすつもりはなくて、ただ気持ちをしっかり持て、と言いたいのだ。確かにこの恐怖はこの世で最悪のものだけれど、二つ良いところがある。一つは、そのお陰で間違いなく別の方向から物事を見られるということだ。自分のものだと思っているものを本当は所有していないということが分かれば、必ずより良く振る舞えるようになるだろう。もし「世はかりそめ」ということを本当に理解できたら、違う形で優先順位を付けられるだろう。もしただ神のみが、そのお望み次第で守ってくれるものだと信じられれば、神との関係も変わるだろう。
 これについては、諸宗教が様々に語っている。しかし残念ながら、その考えはとても深遠で、多くの人にとっては決めるのが難しい。その入口は、この世の楽しみは過ぎゆくもの、アッラー以外は滅び行くもの、というものであっても。救いを求めるべきところを分かっていると言う人にとっても、難しい。
 では、どこからここに至ればいいのか。この世に生きる人々は、皆このことをよく分かってはいるのだ。それについてお喋りしてもいる(お喋りできるなら)。実際に適用することは難しいけれど、その考え自体は簡単に理解できる。持っていたものを失った人たち、あるいは失っていない人でも、好きなものもそうでないものも失われるのだ、ということをよく分かっている。今まで何も失われていなかったとしても、この世のすべてをチクチクと集めたところで、一生よりも短い期間のいつかには、死が訪れて集めたものも何もかもパーになってしまうということを。誰でもそんなことは分かっている。ではどこから考えるのか。どうしてはっきりしないのか。
 思うに、この考えを神とか信仰とかハラームとかハラールといった宗教的な考えと結びつける入り口のせいで、はっきりしないのだ。この入口は、すべての人々を収めることができない。間違いなく、すべての人に理解できるものじゃない。すべての人が主を信じているなら、獅子の如く悠然と構え、何が失われようがまるで動じることもなく、辛い思いもしないだろうけれど。ただ神にのみことは収まると信じているなら、何を窮屈な思いをすることがあるだろう。
 もしかすると問題は、そもそも人間は、アッラーが自分を愛して下さっていると安心し切るまで、ことをアッラーのもとに収めるということができないということかもしれない。安心するためには、主がどのようにご覧になっているか知る必要があるが、残念ながら、それは知ることができない。思ったり感じたり信じたりすることはできるが、はっきりと知ることなどできない。
 もしかすると、この混乱の原因は、人間と主の関係と信仰と宗教への服従の結びつきにあるのかもしれない。例えば、宗教的義務を怠らず毎年ハッジに行く人(ところで、この手の人が本当に酷い目にあわされるということが実際ある)のところに別の人がやってきて、「主があなたをどうご覧になっていると思いますか」と尋ねたら、すぐさま「わたしは宗教的義務も欠かさず、毎年ハッジに行き、ウムラに行き、ラマダーンには貧者の食卓を開き、多めにザカートを支払っている。主がどうご覧になっているかとは、どういうことだ」と答えるだろう。こうした信仰行為をすべて行なっていても、この人は最低の人間で、腹黒く人を害し、利己主義的で現世主義的で、あらゆる酷いことをしているかもしれない。だが、こうした宗教的義務を行なっているが故に、自分のことを良いと思っているのだ。
 諸宗教というものは、ただ神と信仰の仕方を教えるものではなく、ほとんどの場合、人々の権利、盗んではいけないこと、人のものをとってはいけないこと、人を欺こうと嘘をついてはいけないこと、不正を為してはいけないこと、人に対して心広く愛すること、殺してはならないこと、姦淫してはならないこと、天におられる御方が慈しまれるように地上のものを慈しむこと、そうした人間についてのことを信徒たちに教える基礎となっている。では、この人々は、自分たちが本当はいかに振舞っているかを知るためになぜこれを用いないのか。そこから主がどうご覧になっているか知ることができるかもしれないし、それで安心して難問を解くことができるか、あるいは不安ながらも解決を探すことになるかもしれない。
 これは、違う考え方の入口を提案しているのだ。そこから人間の深奥に本当に至ることができれば、すべてを良い方に変えることができるだろう。自分を正しく評価し、どちらに向かっているのか知るということが、その入口を平易とする。自分の向かう方向に安心できれば、恐怖も和らぎ、自信が増し、本当に神へとことを預けるようになるかもしれない。
 この入口は、二つに分けた方がいいと思う(もう一度二つを積み重ねる前に)。主が自分をどうご覧になっているか、これは自分と主との間のことで、自分自身の心を見つめて知ろうとするものだ。周囲にいる自分を知っている人が自分をどう見ているか、これはずっと簡単に推し量れるものだ。そしてこの両方のやり方を勘定してみれば、少なくとも非常に近いものになるはずだと、僕は確信している。
 あなたを知っている人たちについては、あなたがここから居なくなれば、総てが失われる。残るのは、あなたの生き様、名前、皆があなたをどう見ていたか、ここで何をしたのか、あなたがどういう人間だったのか、ということだ。これこそ、そもそも話の出発点だったこの恐ろしい考えが折り目に潜めている長所だ。これこそ、誰もが本当に失うことのできないものだ。自分自身、自分の生き様である。
 僕は誰なのか?と問うなら、答えはこうだ。僕とは、僕が毎日考えて行なっていること。それが良いなら、僕も良いし、悪いなら僕も悪い。なぜ一致するのかと言えば、誰も他人に考えそのものを課すことはできないからだ。考えを吹き込んだり、考えについて話したり、説得したりするところまではできるけれど、決定は常にその考えを受け入れたり受け入れなかったりするあなたのものだ。決定はただ一人のものだ。何をして何をしないか、ただ自分一人が決めるように。
 創造主のみぞ知る心の内、信仰行為、礼拝、斎戒は、ただ主へと帰するものであり、僕たちには知る由もない。片や、考え(人々の知るところの)、行い(人々の見ているところの)は、毎日少しずつ積み重ねられて、あなたの生き様を形作っていく。僕たちが所有している唯一のものだ。誰もそれを奪うことはできないのだから。お金は消えいくし、それを持っている者も消えいくし、あなた自身も消えいくけれど、生き様は残る。僕が死んだ後、皆が僕について何と言うだろうか。今言っていることと同じ事を言うのだ(いくらかお悔やみの言葉をつけたり、人の良い人なら「死人に鞭打つもんじゃないよ」とか付け加えて)。
 この考えを採った上で、お望みならもう一度、主へと戻ろう。人々が自分をどう見ているかを知り、人の見るままの自分自身を知り、この義務を果たしたら、より難しい問いの解決に向かおう。人々より僕自身よりも僕をご存知の我が神が、僕をどう見ているか、理解しようとしてみる。
 要点は、思うに、人々があなたを悪く見ているのに、神があなたをよく見る、というのは筋が通らない、ということだ。人々があなたに邪悪さを見て取ってるのに、神だけが知っているあなたの真実が善であるというのは、おかしいだろう。間違いなく、相互につながりがある。
 あなたを本当に知る人々にとってのあなたの生き様こそが、あなたがこの世で本当に所有しているものの総てだ。それが総てなのだ。
 

成功者になろうとするなかれ、価値ある者となろうとせよ
アルバート・アインシュタイン

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