革命日記

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 エジプト革命はいかにして始まったのか。ムバーラクの辞任まで、何が起きたのか。
 人民は病めど死なないということをご理解頂くには、おそらく革命に遡ること五年ほどフラッシュバックする必要がる。いかに忍耐しても限度というものがある。一度怒れば、暴政は人民の憎悪を受ける1
 革命のリハーサルは、これに遡ること数年、2005年の憲法改正劇における政治運動から始まった。この芝居は明らかに、世襲ドラマを完遂するための地固めだった。エキストラを演じるマンガ的な仮構政党たちに囲まれて、国民党の候補を大統領に据えようというドラマだ。誇り高き国民たちが井戸に投げ込まれ、隊商に拾われることもなかった2
 この時、抗議運動は高まりを見せ、デモ隊がカイロの通りを席巻した。キファーヤ運動3も最初は勢いがあり、誇り高きエジプト国民たちの多くの運動が結集した。これに名誉あるエジプト裁判官らの抗議活動も同調した。これは偉大なる裁判官会および司法の独立運動を通したもので、司法の独立要求と選挙の完全なる司法による監視を強く求めるものとして始まった。憲法改正の国民投票の日、治安当局によるデモ弾圧の小さなリハーサルがあった。ハビーブ・アル=アードリーの内務省が無法者たちに助けを求め、彼らは報酬をもらって、ジャーナリスト組合の階段でデモ隊を襲い、デモに参加していた多くの人々に攻撃を加えたのだ。
 それからデモと抗議運動が常態化した。デモや座り込みの参加者たちは、無法者の助けを借りた治安部隊の攻撃により解散させられることは分かっていた。
 しかし、エジプトを支配する治安機関には、まだサプライズが隠されていた。4月6日、多くの若者がフェイスブックでゼネストを呼びかけ、大勢がこれに応えたのだ。同時に、これに呼応したデモがエジプト各地で行われた。その最も有名なものはマディーナ・アル=マハッラのものだったが、これは虐殺にあい、首謀者は逮捕された。だが、怯えたメディアはこれに注意を払わず、エジプトの地上局および衛星テレビはこの件を軽微にしか扱わず、詳細を報じなかった。
 確かに、この翌年の4月6日には、ストライキは成功しなかった。2010年の4月6日には、デモ隊に酷い暴力的な攻撃が加えられた。この日デモ隊は合法的な要求を叫んだだけで、個人攻撃もなかったのだが、皆は酷い鬱屈した状態に陥れられた。
 このことにより、攻撃を加えられた若者たちの間には、痛みと共に報復への意欲が芽生え、暴力、逮捕、脅迫、拷問、虐待と、この国の主ですべての支配者であるかのように振る舞うようになった内務省を憎んだ。この年の6月、最大の衝撃が走った。警察その他の機関がアレキサンドリアで、取り調べ中の殴打により青年ハーリド・サイードを殺害したのだ。何の政治的性向もない好青年であったハーリド・サイードの写真は人々を揺さぶり、巨大なデモとなり彼の権利を要求、腐敗警察を弾劾し殺人が裁かれることを要求した。
 警察の諜報機関による酷い拷問を顕にしたハーリド・サイードの写真は、人々を目覚めさせ、皆が権利の要求に繰り出した。フェイスブックに「我らは皆ハーリド・サイード」という新しいグループが生まれ、設立数日の間に参加者は二十万人以上にもなった。素晴らしい文章を書きハーリド・サイードの仇討ちと殺人事件としての裁判を要求したグループの創設者は名前を明かさず、エジプトで最も有名な匿名者となった。2011年終わりには、参加者は五十万近くになり、一方でエジプト議会で偽の選挙芝居が行われ、アル=クッドゥーシーヤ教会での事件で大勢の人々が殺され、治安の欠如を顕にした。またチュニジアで暴君ズィーン・アル=アービディーン・イブン=アリーに対する青年革命が起こり、その結果彼はチュニジアを捨て逃亡を余儀なくされた。これらすべてが、人々を後押しし、爆発は必定となった。こうしてエジプトの改革を要求するデモが呼びかけられることになった。「我らは皆ハーリド・サイード」グループおよび4月6日運動、多くの政治活動家がデモを呼びかけ、この歴史的瞬間に一致団結し、2011年1月25日のデモ呼びかけとなった。実際人々は繰り出し、腐敗と拷問、失業との戦いを叫んだ。それも治安当局の愚かな対応がなければ、普通のデモで終わったかもしれない。実弾を発砲し死者が出たのだ。その結果、タハリール広場の人々は、エジプトの善良な若者たちを殺した原因となる男に報復するまでは、家に帰らないことを誓った。
 その人物とは、エジプトのすべての腐敗の元凶、ホスニー・ムバーラクである。雪だるまは大きくなりながら転がり、腐敗したエジプトの体制を完全に打倒する方向へと向かっていった。
 そして実際、その通りになった。
 これは備忘のための革命日記であり、誠実なメディアが伝えてきた通りのものである。
 
2011年1月25日 火曜日
 
 変革を求めるデモと行進が始まった。「怒りの日」と名付けられたこのデモには、カイロおよびいくつかの県で数千人ものエジプト人が参加した。ソーシャル・ネットワークサイト「フェイスブック」での呼びかけに応えたものである。多くの県で激しい要求が盛り上がり、デモ隊と治安部隊との衝突により、治安部隊隊員一名を含む四名が死亡した。夜になりほとんどのカメラがいなくなった後、治安当局はデモ隊に激しい攻撃を加え、タハリール広場での座り込みを解散させるべく酷い扱いをした。死者についてもメディアは報じず、参加者たちは怒りに駆られ、参加しなかった者をも炊きつけた。次の金曜礼拝の後、エジプトの主要モスクからデモを繰り出すことが呼びかけられ、「怒りの金曜日」と名付けられた。
 
1月26日 水曜日
 
 内務省の警告、死者五名負傷者十数名という犠牲、また8名のジャーナリストを含む数百名の逮捕者にも関わらず、デモは継続された。更にエジプト当局はインターネットおよび通信手段を制限し、ソーシャルネットワーク(ツイッターやフェイスブック)を遮断した。これは革命を求める人々が集まるのを防ぐためだったが、変革を求めるデモは更に増大した。
 
1月27日 木曜日
 
 デモはカイロおよび多くの主要都市において三日連続で燃え上がり、デモ隊は統治体制への反対を叫んだ。治安部隊は何百ものデモ参加者に対して大規模な攻撃を加え、東部のスエズやイスマーイーリーヤでは催涙ガスやゴム弾を使用した。
 この日、国際原子力機関全事務局長・ノーベル平和賞受賞・ナイル首飾り勲章受章者で、祖国改革協会のメンバーであるムハンマド・アル=バラーダイー氏は、ムバーラク大統領の退陣を要求し、民衆の求めがあるなら、移行期間において統治を担う用意がある、と明らかにした。
 アメリカ大統領バラク・オバマは、暴力はエジプトの現状に対し解決とならず、長期的なエジプトの益のためには政治改革が「断固として必要」と述べた。
 
1月28日 金曜日
 
 エジプト当局はこの日の早朝、「怒りの金曜日」を阻止すべくインターネットを遮断し、デモ参加者たちがSMSを使えないようにした。その後、通信手段を完全に遮断し、特殊部隊をカイロに重点配備し、抗議勢力の指導者たちを捉えるべく多くの人々を拘束した。
 かつてない形でデモは始まり、金曜礼拝の直後に主要モスクから繰り出した。彼らは警察と衝突しながら「民衆は体制転覆を望む」とシュプレヒコールをあげた。警察は実弾を発砲した。これは国際的に禁じられた行為だ。この日、カイロ東部からおよそ100キロのスエズでは、警察とデモ隊が激しく衝突し、数名の死者と何十人もの負傷者が出た。金曜礼拝の後にカイロを含むエジプトの複数都市で始まった体制改革とムバーラク退陣を要求するこのデモで、数百名が逮捕された。一方、いくつかの都市で与党本部に火が放たれた。
 六時に軍が出動し、警察は完全に退却した。夜六時以降の外出禁止令が発令されたが、エジプト人は誰も守らず苦にもしなかった。この日、オバマ大統領は、ムバーラクに対し政治改革の具体化をすすめ、抗議勢力への暴力をやめるよう呼びかけた。ムバーラク大統領は夜、公共テレビに登場し、政府に退陣を要求し、新内閣を組閣することを明らかにした。
 
1月29日 土曜日
 
 ムバーラク大統領は、諜報局長のウマル・スレイマーンを副大統領に命じ、民間航空相アフマド・シャフィークに新内閣の組閣を命じた。
 ムバーラクの後手後手ではっきりしない演説の後も、激しい抗議がカイロおよび諸都市で続き、彼の退陣が要求された。
 この時点で、抗議勢力の死者は、カイロ、アレキサンドリア、スエズで68名に達していた。
 エジプト各地で警察署が放火された。これに先立って、警察は発砲しており、刑務所の扉を開き犯罪者を逃がし、彼らの味方としてデモ隊を攻撃させていた。
 この日エジプト各地で死者数が増加し、軍は治安維持と市民の保護のためすべての都市に大部隊を派遣することを表明した。
 アブー=ザアバル刑務所で暴動が発生し、治安部隊が囚人たちに対し実弾を発砲した。ナイルデルタのアル=アナーティル刑務所でも、治安部隊の攻撃により数十名の死者が出たと報じられた。
 
1月30日 日曜日
 
 体制打倒を求める怒りの抗議が吹き荒れ、外国人のエジプトからの避難が続いた。治安当局による暴力が増す一方、何万人もの抗議勢力がタハリール広場に集まり、怒りをもって激しく抗議し、デモ隊はエジプト現体制の打倒を主張した。この日、アメリカ外務相ヒラリー・クリントンは、無政府状態を防ぐためエジプトの「正常化」を求めるつぃ、副大統領の指名では十分ではないとした。
 一方エジプト内務省は、先の突然の撤退に続いて、カイロ中心部のタハリール広場を除くエジプト全土に対し、治安部隊を再度展開することを発表した。
 オバマは、エジプト民衆の期待に答える政府への平和的な政権移譲を求めた。エジプト当局は、アルジャジーラのエジプトでの活動を禁じ、エジプトの人工衛星ナイルサットによる中東地域一部への放送を遮断した。
 
1月31日 月曜日
 
 ムバーラクは新総理大臣アフマド・シャフィークに反対勢力との対話を始めることを命じた。また補助金の継続とインフレ抑制、就業機会の創出を求めた。欧州連合外務治安保障政策上級代表キャサリン・アシュトンは、ムバーラク大統領に、反対勢力との対話の即時開始と、反政府勢力の期待に応えることを呼びかけた。ムバーラク大統領は、副大統領ウマル・スレイマーンに、憲法および法改正に関わるすべての問題の解決に向けて、すべての政治勢力との協議に入るよう命じた。
 
2月1日 火曜日
 
 カイロ中心部のタハリール広場にデモ隊の洪水がなだれ込み、百万人以上が集まった。ムバーラク辞任を求める政治勢力の百万人デモの呼びかけに応えたものだ。他の都市でも抗議が続いた。
 ムバーラク大統領は、公共テレビでの演説で、新たな任期には立候補せず、残りの任期数ヶ月を平和的政権以上のために使うことを表明した。またムバーラクは演説で、自分はエジプトに生き、エジプトで死ぬ、と感情的に訴え、人々の情に訴えようとした。この時、総理大臣アフマド・シャフィークがはじめて登場し、「自らの首をかけて」デモ参加者らの安全を守ると述べた。だが同じ頃、武装し組織された集団、エジプトで言うところの「無法者」が現れ、タハリール広場近くのタラアト・ハルブ広場でデモ参加者らを攻撃した。そこでは何万人もがムバーラク大統領辞任を要求していた。これがエジプト人たちに向けた演説の後に起きたのである。
 
2月2日 水曜日
 
 ムバーラクを退陣に追い込むべく、反対勢力連合は金曜日の大デモを呼びかけた。一方、与党国民党は、ムバーラク支持のデモを組織した。
 この日、アラブ連盟事務局長アムル・ムーサーは、来たる9月のエジプト大統領選挙出馬について、真剣に検討していると述べた。またエジプト議会議長は、前の演説でムバーラク大統領が言及した憲法改正を行う決意を表した。また先の議会選挙結果に関する避難を解決すべく、議会機能を一時停止するという報道を正しいものとした。
 この日、タハリール広場では、ムバーラク支持派により最大の暴力が繰り広げられた。タハリール広場を馬やラクダに乗って襲撃し、平和的デモ参加者の8名が死亡し、1500人以上が負傷した。反対勢力は大統領辞任を要求し続けた。
 平和的デモ参加者と、私服警官と内務省と国民党が逃がした犯罪者たちによるムバーラク側の無法者との間で、激しい衝突が起きた。革命を頓挫させタハリールの座り込みを解散させるべく、激しい戦いが開始された。この日、デモ参加者たちは、火炎瓶が投げられ、隊列の人々から死者が出ても、自分たちの陣地を死守した。そして最後には勝利を手にし、無法者たちは敗退し、恥辱を被り、慈悲を拒否されるであろう4
 
2月3日 木曜日
 
 広場は負傷した若者だらけになった。ほとんどの反対勢力は、エジプト首相アフマド・シャフィークの国民対話開始提案を拒否し、ムバーラク大統領の即時辞任と国内のすべての政治勢力を含む挙国一致内閣の組閣を条件とした。ムバーラク支持派の攻撃は続き、タハリール広場近くで激しい銃撃を行った。外国人特派員らには、広場周辺のホテルから退去するよう通告が出された。
 副大統領アムル・スレイマーンは、大統領もその息子ガマール・ムバーラクも大統領選挙には立候補しないと発表し、暴力とタハリール広場の無秩序の原因となったすべての者を罰すると述べた。ムバーラク大統領は西側の記者団に対し、地位から退くつもりだが、今そうすることで国が無秩序に陥るのではないか危惧している、と述べた。
 
2月4日 金曜日
 
 タハリール広場で百万人以上が金曜礼拝を行い、説教者は群衆と若者たちに対し、ムバーラク体制打倒までの忍耐を訴えた。「辞任の金曜日」と名付けられたこの日、アレキサンドリアやその他の諸都市で、ムバーラク辞任を求める巨大な行進が行われた。
 
2月5日 土曜日
 
 与党国民党指導部は辞任し、フサーム・バドラーウィーが、党首サフゥワト・アッ=シャリーフと副党首であるムバーラクの息子ガマールに代わった。アメリカ大使フランク・ウィスナーは、ムバーラク大統領は、必要な変革を行い平和的な移譲を為すまで現状では権力に留まるべきだ、と述べた。アメリカ外務省のスポークスパーソン、フィリップ・クラウリーは、ウィスナーは個人的異見を述べただけで、アメリカ政府の意向ではない、と語った。
 エジプト軍総司令官ハサン・アッ=ルウィーニーは、デモ参加者らにタハリール広場からの退去を求めたが、タハリールの若者たちは戦車の前に隊列を為し、死体の上を乗り越えて行け、と求めた。ムバーラクは和解を画策した。
 
2月6日 日曜日
 
 ムスリム同胞団を含む反対勢力は、ウマル・スレイマーンとの対話をもったが、ムバーラク辞任を示すものは何もなかった。
 
2月7日 月曜日
 
 前内務大臣ハビーブ・アル=アドリーが拘束され、軍事法廷にかけられることが報道された。
 
2月8日 火曜日
 
 ヒューマン・ライツ・ウォッチは、エジプトで現在進行中の騒乱により約300名が死亡したと発表した。デモ隊は議会と内閣府を包囲した。この時のデモの規模は、「1月25日革命」で最大のものとなった。
 
2月9日 水曜日
 
 アル=ワーディー・アル=ガディード県のアル=ハーリガで、実弾を使用した警察との衝突により、5名が死亡、100人が負傷した。
 
2月10日 木曜日
 
 エジプト最高軍事評議会がムバーラク大統領欠席のまま開催され、声明第一号にて、エジプトの現況を鑑み常設評議会とすることを宣言した。タハリール広場やその他の広場、橋でムバーラク辞任を要求するデモ隊の数は、300万人を越えた。
 ムバーラク大統領は、深夜前の演説で、任期満了まで任に留まり、憲法に基づき大統領の指名を副大統領に委任する、と述べた。副大統領ウマル・スレイマーンは、この演説の後に、憲法に従って権力の平和的移譲につとめると述べ、デモ参加者らに帰宅し仕事に戻るよう求めた。
 デモ参加者らは二人の演説を激しく拒否し、第一要求、すなわちムバーラク体制の打倒を堅持した。何千ものデモ参加者が、ムバーラク大統領の演説の後、大統領宮殿およびテレビ局庁舎に向かい、軍が宮殿の周りに鉄条網を敷設した。
 
2月11日 金曜日
 
 カイロやその他の都市で何百万ものエジプト人がデモに参加し、少なくとも二百万人が、金曜礼拝後にタハリール広場から大統領宮殿に向かった。軍は声明第二号にて、現況の解消次第、非常事態令5を解き、自由な大統領選挙を行うことを発表した。
 夕方6時、ウマル・スレイマーンは、ホスニー・ムバーラクの辞任と軍への権限委譲を発表した。エジプト最高軍事評議会は声明第三号にて、これがエジプト大衆の満足する法体制の代わりとなるものではないことを述べた。18日間のデモと座り込みの末、ホスニー・ムバーラク体制は打倒された。
 この日はホスニー・ムバーラク体制打倒の歓びでエジプト中が湧き上がり、その反響がアラブとヨーロッパの諸都市にまで響いた。

  1. リケル・隍€ リァル・キリコリァリゥ リ」ル陂€ ル韓ェルほ陟€ リエリア リァル・エリケリィ リ・リーリァ リコリカリィだが、これはリァリェルほ言 リエリア リァル・ュル・館蔀 リァリーリァ リコリカ温厚な人が怒ったら手がつけられない、という意味のハディースを下敷きにしている []
  2. 預言者ユースフが兄弟の策謀により井戸に投げ込まれるも、通りがかった隊商に助けられるエピソードを下敷きにしている。「誇り高き国民たち」は隊商に拾われなかった、つまり反対者はそのまま殺された、ということ []
  3. 2004年に始まり2005年の大統領選挙で盛り上がりを見せた、世襲に反対する草の根運動。正式には「変革のためのエジプト運動」。キファーヤとは「もう沢山だ」という意味。作家アラーゥ・アル=アスワーニーの他、多くの文化人が賛意を示した []
  4. リェリアリァリャリケル陟€ ル・ール・異・館陂€ ル・ッリュル畏アル館・ヘ、クルアーン夜の旅章18にあるフレーズル・ール・異・ァ ル・ッリュル畏アリァから来ている []
  5. この非常事態令は、サーダート暗殺とムバーラク就任の三十年前に発令されたまま解除されず、不当逮捕の温床となっていた。2011年2月16日に遂に解除された。 []
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