世界のすべてが幻かもしれないが、それはそれで構わない、ということが

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 世界のすべてが幻かもしれないが、それはそれで構わない、ということが、信仰にとって重要な点だ。
 懐疑論的思考実験の多くが、「神の存在証明」と結びついていたことは、偶然ではない。
 あらゆるものを疑い得る、ということは、わたしにとってわたしは信用ならない、ということだ。
 デカルトが発見したコギトとは、世界の原点としての「わたし」ではない。そんなものなら、いくらでも疑い得る。
 そうではなく、原点のように思考し疑う、そのわたしの矮小さ、寂しさだ。そのわたしが、広大な宇宙に一人ぼっちで、暗い夜の底に置き去りにされている姿だ。
 そして、その小さな者が置き去りにされているということは、置き去りにされた「対象としての疑うわたし」を見る視線がある、ということだ。その視線とは、視覚以前にある眼差しだ。
 世界のすべては幻かもしれないし、実際、多分幻だ。
 本当の幻と、偽物の幻があるだけだ。わたしたちが、本当の嘘と嘘の嘘しか語れないように。あるいは、「自分を王だと思っている王」であるように。
 しかしそれでなお、何一つ揺らぐことがない、何もうろたえる必要がない場所があるとしたら、それが信仰の場所だ。
 それはつまり、疑ったり考えたりしているわたしというものを、ハナから信用していない、ということだ。
 わたしは最初から、「対象としての疑うわたし」であり、一人ぼっちで夜の底に置き去りにされている。寄る辺ない。
 重要なのは、その姿を見下ろしている者であり、寄る辺ないわたしが吹き飛んだとしても、その視線に揺らぎはない。
 全力で信じるわたしをわたしは信じない、ということから、始まる。
 それは強く信じない、ということではなく、信じなかったとしても特に問題ない、何一つ変わらない、ということだ。
 力んでいた力をフッと抜いても何も痛みなどなかった、という静けさが、ここにある。



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