羊はどこへ行ったのだろう

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 今更ながら、犠牲祭の時に見せてもらった屠殺の風景を思い出すのですが、印象的だったのは、思ったより羊が抵抗しない、ということでした。
 押さえ付けられるので多少もがくのですが、文字通りの「必死の抵抗」という感じは全然ない。
 これが人間だったら、押さえ付けるとか何とか言う以前に、何せ殺されるのですから、能うる限りの抵抗を試みるでしょうし、抵抗できないなりに泣いたり喚いたりする方が普通でしょう。
 それは羊が死を知らないからだ、と言われれば、確かにその通りです。
 押さえ付けられるのは嫌。痛いのも嫌。でも死ぬのが嫌というのは、次元の違うお話です。
 死ぬという要素を抜きにして、ちょっと押さえ付けられてもがいて、刃物が当たれば痛いからもがくのだけれどもう遅くて、あらっと思ったらもう死んでました(死につつありました)ということかもしれません。
 でもどちらかというと、死ぬということも分かっていて、分かっているのに特別な抵抗もせず、ああそうですか、その日が来ましたか、嫌だけど仕方ないですね、と達観しているような気がしました。
 大体、人間は死を知っているとか言っても、経験的には、せいぜい「誰でもいつかは死ぬ」、という程度のことを分かっている程度のことです。羊はそんなことを知らないのでしょうか。いや、知らないというのが常識的な答えでしょうが、どうも知っているんじゃないか、それどころか、人間よりもっと知っているんじゃないか、だからそれほど抵抗しないんじゃないか、という気がしてなりません。
 人間は死を知っていると言いますが、死ぬことの意味、死んだ後はどうなる、ということは、神様から教えて頂いて人づてに聞いているに過ぎません。伝聞ですから、不安になることもあります。でも、もっともっと神様の近くで、もっとはっきり知ることができたら、そんなに不安にもならなければ、怖くもなくなるように思います。
 羊は最初からこの辺まで行っていて、死について人間より余程よく知っているから、窮鼠猫を噛むように大暴れしたりはしないのではないでしょうか。
 いや、これが過剰な投影であることは分かっています。
 ただ考えるのです。
 あの羊はどこへ行ったのだろう。わたしたちは知らない。でも多分、彼は知っていた。おそらくは最初から最後まで。



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