安全志向が高まり、不安だけが膨れていくのは、まだ「負けしろ」があると思いたいからだ。
「落ちるかもしれない」という不安、それは「高みにあるもの」の特権というより、「まだ高みにある」と信じたい心が招く幻想にすぎない。
「落ちるかもしれない」と不安である限りは、落ちるだけの余地が残っているということを、暗黙に支持できる。
本当のところ、もう「負けしろ」なんて残っていないんじゃないか。
もう、負けたのだ。
恐ろしいのは、負けてもまだ生きている、ということだ。
だから、できることはまだある。生きているんだもの。
もう負けたのだ、と悟れば、心が自由になる。
これ以上負けないから、もう後は攻めるだけだ。不安になる余裕はない。安全を省みる余裕もない。
安全を捨てると、心が平安になる。
多分、そこからしか始められない。