日本すごいから玉ねぎ食べるとぐったりしちゃう、もう誰も密告しないから安全です

 日本すごい系の言説があちらこちらで繰り返されることを憂いたり揶揄したりする言葉というのがあって、それはそれで誠にもっとも、心情的には割合共感する。日本人が自分で自分をすごいと言うのは、人間ハ万物ノ霊長ナリとヒトが自分で言っているようなもので、チンパンジーが言ってくれるなら多少は聞くべきものもあるというお話だ。そう言うとテキサスのお父さんとかどこぞのお父さんとか色々引っ張ってきて「ほらガイジンもそう言ってる」、Youは何しに日本へ、となるのだろうけれど、相変わらず手を引いてほらほらこっちと言っているのは当の日本人なのだから、誠にオメデタイとしか言いようがない。挙句の果てに皇室の血を引くおじさんが褌で水浴びしながら伝統を促成栽培、心頭滅却すれば神風が吹いても風邪ひきません。
 それはともかく、日本すごい系のほとんどのお話は、中身としては醜悪極まりない。けれどもその手の「我が国は世界一」のお話というのは世界中どこにでも見られるのであって、むしろ日本などまだまだ控えめな方だと言ってよろしい。わたしが個人的に知る狭い範囲でも、アメリカ人はもっとアメリカがすごいと思っているし、エジプト人だってエジプトがすごいと思っている。面白いのは、そこですごいと思っている人に限って、(彼彼女らの思うところの)母国のアカンところについては舌鋒鋭く批判、というより罵倒するところだけれど、それはさておき、「我が国は世界一」という人たちがアホほどいるのは別段日本特有という訳でもなく、ある意味それこそが、本邦もまた清く正しい平凡な土人国家の一つであったという証左ともなる。普通が一番。だから、日本は別にすごくない、むしろ普通、という人にとっても、それはそれでキチンと辻褄が合っているところがある。人類皆兄弟。
 で、ここからが本題なのだけれど、日本すごい的なものが世界中どこにでも見られるのは、この世のほとんどの人たちは内輪の狭い狭いところで生まれて生きて年を取って死ぬもので、その人たちにとっては、ドイツの科学がセカイイチ、と宣うことが他人様の目から見てどう映るか、などということは、誠にもってどうでもいいということなのだ。その他人様が身近にいないのだから、関係なんかあるわけがない。そういう場所では、ガイジンが見たらどう思うか、などを考える前に、ガイジンではない近所の人とか職場のおっさんとかがどう見ているかの方が一億倍も重要なのであって、その限りにおいては、日本すごいとか岡山世界一とか言っている方が角が立たないというもので、言っている本人も気分がよろしい。もちろん、言ってるそばからガイジンがやってきて、岡山別に世界一じゃないよ、キビダンゴよりピノの方がおいしいよ、ほらおひとつどうぞ。あらやだおいしい、ピノってすごいのね、しょぼーん、ということになれば話が違うが、岡山にはガイジンも来ないしピノも持ってこない。言ったところで損もなければご近所様にも受けが良いのなら、言わない法はない。むしろ空気読んで言え。それが自分も周りも幸せにする良き処世術というもので、人類のほとんどはそうやってローカルに小さく生きていて、それが真っ当な人生なのだ。これぞ真の地方再生。都会の左翼が言う戯言とは違う。土建屋の下品な親父が女体盛りやりながら鼻からハイライトの煙を吐くのがまことの地方再生、地域復興というものである。
 言ってる内容に多少嘘があろうがほとんど全部嘘だろうが、唱えるだけで自分も周りもハッピーになれるなら、ヘロインよりもずっと身体に良くてしかもタダ。この世のほとんどの人たちは、そういう言語ドラッグで適当に脳とか耳の後ろとかをぽわ~んと気持ちよくしながら、芋の収穫とか板金塗装とかやって生きていくのである。
 それをどこぞのインテリだか国際派だかが、呼んでもいないのにピノだかチゲだかを持ってきて、ほら食べてご覧よ、キビダンゴだって世界一じゃない、同じくらい美味しいものは世界中にあるんだ、相互理解文化交流、って大きなお世話だボケ。そのお金持ちの国際派は、学もあって世の中も知って、それを携えて都会とかルクセンブルクとかで商売もできようというものだけれど、田舎の中途半端なガキやオッサンが変な小知恵をつけたところで、百害あって一利なし。地元に居場所もなくなれば、都会に出るほどの器量もなく、まして世界など夢のまた夢。得るところなど一つもない。そして、何度でも言うけれど、人類のほとんどはそんな程度の小さな器でぼちぼちやってお父さんお母さんをそこそこ大事にしてそこそこないがしろにして、テキトーに歳をとって死ぬものなのだ。人類が皆んな銀行屋とかアイテーエンジニアとかになったらたまらない。土方もいればアイテー土方もいる、百姓もいれば坊主も大臣もいる、それが真っ当な村というもので、グローバルにやられたらうちの村にはバナナ畑しか残らない。しかも百姓はバナナの葉っぱだけ食べて、中身は全部白人が持っていく。
 田舎で水道管埋めなおしたり非常階段の防錆塗装したり、そういうハトやカトンボみたいな人生を、どこぞのインテリだかブルジョワジーだかに憐れまれたり蔑まれたり、言うに及んで「可能性無限大」みたいに煽られる理由など一ミリもない。そんな戯言に騙されて都会の大学に行った挙句、中途半端な高等遊民になって人生台無しにする人間がたくさんいる。騙されたらいけない。可能性とか夢とか希望というのは、搾取のための常套句であって、宝くじというのは胴元しか儲からないようにできているのだ。可能性だけなら誰でも言える。
 いやいやそうじゃございません、皆様方が言語ドラッグで気持ちよくなりながら芋を掘ってる分には文句も言いませんが、日本のテレビが日本すごい一色では流石に諸外国の皆様に恥ずかしいじゃございませんか。そういう立派な方たちがいらっしゃるかもわからない。しかしよく考えなさい。そこで他所様を前に恥をかくのは、金持ちとかインテリとか国際派とか、そういう人たちだけの話だ。テレビを見ている圧倒的大多数の芋掘ってる土人には関係ない話だ。だって岡山にはガイジンがピノ持ってこないから。なぜ、一握りの人たちがガイジンの前で恥をかかないために、圧倒的多数のそこそこ善良で結構ヤンキーな田舎のクズどもが我慢しなければいけないのか。そんなことは知ったこっちゃない。実際、知ったこっちゃないから、今もテレビでは日本すごいがとってもすごい。
 大体、テレビというのはバカが見るものである。バカとかボケ老人が棒を持って暴れ出さないように、目がチカチカする電波で脳とか耳の後ろをぽわ~んと暖かくしてくれるのがテレビというものだ。これはもう、世界中どこにいっても、テレビはバカのために存在している。わたしの実家は、クソ取り澄ました嘘くせー家だったので、テレビを見るとバカになる、と言われて子どもの頃は見させてもらえなかった。実際、この教えは今でも結構正しいと思っている。正確に言えば、テレビを見るとバカになるというより、バカがテレビを見て、見ることでより一層バカになる、バカスパイラルということだ。テレビはバカ専用。バカ以外が見ると血を吐いて死ぬ。ケンタッキーだって犬が食べれば骨が刺さるし、玉ねぎだって猫が食べるとぐったりしちゃう。何にでも相応しい使い方というのがあり、使用上の注意をよく読み、用法・用量を守って正しくお使い下さい。だから日本すごいが嫌いなバカではない立派な方々は、テレビなど見なければよろしい。あんな下賤な下々の楽しみで、お目を汚してはいけません。居間のテレビにも布をかけたりアルミホイルを巻いたりして近づいてはいけません。お体に触ります。血を吐いて死ね。
 ポストトゥルースなんて取ってつけたようなやっすい言葉が流れてくるけれど、人類開闢以来、語の真の意味でのトゥルースなんてものが歓迎されたことは一度もない。そういうもので世の中動いてない。理系のうんこやろうどもは、近代科学のもたらした知なら社会的政治的バイアスを越えて真と信じるかもわからないけれど、それは科学論科学史の一ページも知らない能天気ゆえというもので、結果的に一周回って、この人達も見事なまでにプレもポストもトゥルースどころの騒ぎじゃない。彼らは彼らでトゥルースだと思っているし、田舎のクズどもも日本すごいと思っているし、宗教野郎もトゥルースを信じているし、誰も彼もがトゥルーストゥルース気安いものだけれど、どれもこれも脳と耳の後ろがぽわ~んと暖かくなる毒電波以外の何者でもない。でもそれがいい。ぽわ~んと暖かくしたっていいじゃない。人間だもの。ヘロインよりも身体に良くてしかもタダ。血を吐いて死ね。
 テレビが大好きな田舎のクソ板金工だろうが、テレビを見ると血を吐いて死ぬ都会のクソ理系クソ金融屋だろうが、トゥルース大好きでは全員一致人類みな兄弟。それぞれのトゥルースを振り回しては、左翼を殴り右翼を殴り、バカッターを殴りニセ科学を殴り、ヒラリーを殴りトランプを殴る。殴った方も殴られた方も、どっちもトゥルーだ。選挙で負けてもゼロ票じゃなければまだまだ結構トゥルートゥルー。
 真実というのは、常に裏切り者の言葉だ。真実を求めるとか口にするというのは、いつでもどこでも密告者の仕事である。裏切り者は殺せ。実際、大体、殺される。すべてのトゥルースを裏切る者だけが、その向こうにあった真実を携えて叫ぶ。アンネ・フランクはここです。しかしゲシュタポが本当に撃つのは、アンネではなく密告者なのだ。そして密告者はいなかったことにされる。奇しくもアンネの隠れ家は、最近になって、密告ではなく偶然により発見された、ということになったらしい。密告者はいませんでした。世界は平和でした。悪いのはナチスと偶然だけでした。ヒゲのおじさんは連合軍が殺したし、偶然を司る神も死んだからもう安全です。
 世界の人々が邪心に染まり、互いが互いに憎しみ合い、その中で正義を貫こうと集まった者も、たちまち疑心暗鬼に囚われ殺し合う。誰もがトゥルースを声高に叫び、ただ罵り殺し合う。その中で限られた数少ない者だけが、真実を携え生き延びる。しかしその者たちを「見た者も聞いた者も一人もいなかったのである」。ラスコーリニコフが夢で見ただけだ。そう、夢で見ただけ。小説の主人公が。夢。は。
 血を吐いて死ね。



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