捕鯨は文化と言われても、ビート板が買えなければ魚屋でトロ箱を貰ってくると良い

 捕鯨は文化だから守らなければいけない、みたいなお話があって、しかしよく考えてみれば文化だとなぜ守らなければいけないのか、釈然としない。特定漁民の利権保護のためとか言ってくれた方が、まだ納得できる。当地の産業の保護育成に務めるのは経世済民として真っ当なことだから、別段これ自体がイカンというものでもない(もちろん、他との兼ね合いで通らないということは大いにある)。
 文化だから守らなければいけない、文化だから口出しするな、というのは、当然ながら、身も蓋もない損得でものを言っては向こうさんが納得して下さらない、ということであろう。文化と言っておけば、一応の言い訳が立つ、無敵とは言わないまでも、迫り来る山姥に御札を投げる程度の時間稼ぎにはなる、ということだ。逆に言えば、文化などその程度のものであって、「文化ですから」などと言われ始めた時には、既にそのものの頽落が始まっていると思った方が良い。文化の時点で棺桶に片足を突っ込んでいる。
 損得では納得して貰えない、と言ったけれど、例えばわたし自身に対して損得だけを振り回す身勝手な主張が突きつけられたとしたら、それはもちろん、納得はしない。納得はしないけれど、世の中、納得できないことだらけで、別に世界はわたしが納得するためにできているわけではないのだから、それはそれで仕方がない。どうしても我慢ならなければ、こっそり後をつけていって駅の階段で後ろから蹴飛ばすとか、そういう話でしかない。
 わたしたちには「納得したい欲」というものがあって、スジが通ってスッキリいくと、それだけですごく得した気持ちになれる。損得で考えると必ずしも得していなくても、納得できただけで結構儲けた気分になる。納得とか理解というのは、個別の具象を全部一つずつ覚えて相手にしなければいけないところを、一つのロジックですっきり理解する、ということだ。手動でチクチクやっていたものをオートメーション化する、マクロで一気に片付ける、というようなもので、要するに楽である。楽だから嬉しい。納得というのは、楽をしたいということだ。楽ができたら得した気分になる、というのは、まことにもっともなことである。
 こういうものに慣れてしまうと、納得できないことへの耐性がなくなってしまう。わたし自身、人一倍納得して理解したい性質の人間として育ってしまったので、この気持ちはよくわかる。こういう人間というのは、変に小賢しくひ弱で甘やかされて育っているので、じっくり腰を据えて頭をスッキリさせて楽にクリーンに物事に向かい合う、ということに慣れてしまっているのだ。そうすると、ちょっと辻褄の合わないことに出会うと、釈然としない、納得できない、と憤然としてしまう。
 しかし、世の中のほとんど、大宇宙のほとんどはスジもヘッタクレもないもので、元々、大自然はわたしたちが納得するためにできている訳でもない。荒川はなぜ東京湾に注ぐのだ、相模湾まで行ってくれた方が便利ではないか、と言っても、仕方がない。ちなみに世の中のお金の流れというのも同じ話で、お金というのは労働やら社会貢献に対する対価として支払われるわけではない。荒川のように、昔々からなんとなくクセの付いている流れというのがあって、その流れのそばにいればお金が入るし、いなければいくら頑張ってもお金はこない、という、それだけの話にすぎない。それが不満で、相模湾の方に流れてくれ、と言ったところで、江戸幕府くらいのど根性で付け替え工事でもしない限り、川はこっちには流れてこない。大抵の場合は、付け替えするより自分が引っ越した方が断然早いし楽だ。
 そうは言っても、「オイラが欲しいからクレ」「いや、オイラの方が欲しいからヤダ」とやりあっていても、いかにも頭が悪そうで話がなかなか進まないので、文化とかなんとか、それらしいことを言って、さも中身のある話をしている風にできているのだろう。それで納得して頭が楽をできるなら、その事自体は責めるものでもないけれど、そういうのは強い力を持った人たちだけに許された贅沢なやり取りであって、下々の者は守ってくれるものがあるわけでもなく、納得させて貰える風流など味わえるべくもない。ただただ不条理に色んなものがやってきて、従うか逃げるか戦って野垂れ死ぬか、大方そのあたりを条件反射で選んで、ハズレを引いたら死ぬとか、そんな風に生きるより他にない。
 大体、納得というのは、所詮はヒトの脳みその中で楽をするとかキモチイイとか、そんな程度のお話なのだから、納得できたら結果も伴うかというと、そうとも限らない。人の脳みそで考えられることなどたかが知れているのだから、スジは通っている(ように見える)けれどなぜかうまくいかない、スジが通っていないのに結果まあまあ良かった、などということはザラにある。
 スジの贅沢を味わう余地がないなら、不条理は不条理のままに差し出してくださって問題ない。どのみち選ぶ権利などないのだから、どっちにしても同じことだ。大体、納得できなくても、なぜか結果は都合よく出る、ということもある。その辺は目を瞑ってボールを投げている。目を開けて投げても大概当たらないのだから、当たるも八卦当たらぬも八卦である。
 こういうヤケッパチというか、テキトーなものの見方というのが広まってくると、納得できる場所にいる人々は怯え始める。今まで納得で話を進めていたのに、これからは脳みそのメモリを圧迫されて酷い目にあうのではないか、ということだ。しかし世の中、元々個別と具象の塊で、一握りの人々以外は最初からそういう無駄不合理の塊の中で生きている。それを恐れるのは、そこにいない人たちだけで、そんな人達の話を真面目に聞いてしまっては損である。ハイハイそうですか、と納得したフリをして、納得できないまま、もろとも濁流に飲まれて、運が良ければ岸につくし、運が悪ければ野垂れ死に。川の流れはどうにもならない。クジラだって流れに飲まれてあっという間だ。まして金槌など一巻の終わりである。
 せいぜい、小さいところで真面目に生きるのが一番である。ビート板が買えなければ魚屋でトロ箱を貰ってくると良い。



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