因果応報と「信じる」こと、割りと真面目なアホが一番幸せ

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 人のある行い(大抵はネガティヴな行為)について、「そうした行いをするなら、他人が同じことをあなたに行っても文句は言えない」と言う人がいます。例えば、約束をすぐ破る人がいたとして、「そんなに約束を守らないようなら、他人があなたの約束を破っても文句は言えない」といった具合です。
 しかしこれはよく考えると少し奇妙な話で、泥棒だって自分のものを盗まれたら悔しいでしょう。いくら悪いことをしていても、他人から同じ悪いことをされて何も感じない、ということはないでしょうし、文句の一つくらい言うでしょう。それはそれ、これはこれです。
 当たり前ですが、悪い行いをしたからといって悪い行いが必ず返ってくる訳ではないし、良い行いをしても良い行いが返ってくるとは限りません。
 もちろん、実際上は、結果的に「因果応報」的な現象がある程度成り立つことはあるでしょう。特に狭いコミュニティなどでは、良くも悪くも評判がすぐ共有されます。しかしそれはあくまで結果であって、最初にある原理ではありません。
 例えば、わたしが「盗みを働かない」としても、それはわたしが盗まないことで、泥棒がわたしから盗むのをやめてくれるからではありません。わたしが盗もうが盗むまいが、盗む人は盗むでしょう。だからといって「どうせ盗まれるんだから盗まないと損だ」というのではありません。いや、実際には本当に「盗まないと損(やったもん勝ち)」な状況は大いにありえますが、ここで言いたいのはそういうことではなく、わたしが盗まないのは全然別の理由によるものだ、ということです。そこまでお金に困っていない、とか、警察に捕まるから、といった理由で盗まないのです。別に盗まないと盗まれないから盗まない訳ではありません。
 何が言いたいかといえば、因果応報的な原理というのは、ある条件下で結果的に成り立つ場合があるにせよ、人はそういう原理で動いている訳ではないし、大前提として立てて良いものでもない、ということです。
 悪いことをしないのは人から悪いことをされないためではないし(そういう動機で悪いことを避けても結構ですが、多分効果はないです。盗んでも盗まないでも盗まれる時は盗まれます)、良いことをするのも人から良いことをしてもらうためではありません。
 そういうのは、「結果として成り立ったらラッキー」程度の話で、基本的には全然アテにならないものです。そういう原理を前提に動くと、人はどんどん不幸になっていきます。なぜなら、結果として成り立つ因果応報的な世界観というのは、他者のいない頭の中とか、ものすごい閉じた村とかでしか成り立たないファンタジーだからです。他者は意味不明なもので、ファンタジーの通じないものですから、ファンタジーを前提にすると憤懣ばかりが溜まっていきます。
 繰り返しますが、だからといって、「良いことをしても悪いことをしても結果は一緒だ、どうせならやりたいようにやらないと損だ」というヤケッパチなことを言いたい訳ではありません。正確に言うと、このヤケッパチは確かに一理あって、すべての出発点はここにあって良いかと思います。しかし実際には世の中はもっと複雑なので、ヤケッパチをやっていると(不思議なことに)確かにロクでもない結果になることがそれなりにあります。ただ、ヤケッパチがよろしくないのは、因果応報で悪いことに悪いことが返ってくるからではなく、ただ単に盗むと袋叩きにされるとか、そういう非対称な「悪い結果」が待っているからです。
 善悪に対する世界の反応は、常に非対称であって、「他我」が並置されるようなモデルにより成り立っている訳ではありません。それはあくまで結果論です。
 しかしここで面倒なのは、あくまで結果論ということなら、ある程度コレが成り立つ、ということです。そしてこの因果応報的モデル(「他我」が並置されるようなモデル)は大変分かりやすいので、例えば親が子供に諭すようなときには、とても手っ取り早いのです。ただ、これをガチガチに信じてしまうと、先に述べたように、心が狭隘になって融通がきかなくなり、大抵は不幸になっていきます。
 ですから、このモデルを信じるにしても、何か大きな断絶が必要なのです。
 「天網恢恢疎にして漏らさず」と言いますが、わたしたちは天ではないし、天の声が突然聞こえてきて覚醒することもないので、天というのはまことに覚束ないものです。大体それくらいで「疎にして漏らさず」ということです。天網は漏らさないけれど、わたしたちと天の間には断絶があるので、わたしたちにとっては結構漏れたりします。でも漏れないこともある。それくらいです。
 神様を信じるというのはこういうことであって、神様は絶対で見逃さないけれど、わたしたちは神様ではないし、神様との間には断絶があるので、わたしたちにとっては100%ガチガチに道理が成り立っている訳ではありません。成り立つ時もあるし、成り立たない時もある。「いや、それでも大局で見ればガチに成り立っているんだ」というために、「死後の報い」のような考えがあります。勝ち逃げは許されず、死んだらちゃんと報いを受ける、ということです。でも死んで生き返った人はほとんどいないので、本当のところは分かりません。つまり「信じる」しかないことです。
 断絶があるから「信じる」のです。
 神様に電話をかけて「本当のところどうなの」とか聞けるなら、信じるとか信じないとかいう話は出てきません。
 逆に言えば、「信じる」必要もなくガチガチに現世的に原理が成り立つ、と言っている人がいたら、その人の話は信仰の話ではありません。ただのディストピア的迷妄です。
 子供にもアホにも分かりやすくてなおかつそれなりに成り立つモデルというのは、断絶の向こうを「信じる」ということとセットになることで、初めてほどほどに回るようになります。
 正確には、アホな人ならそれほど「信じる」必要はありません。アホな人は適当なので、そんなにガチガチに徹底して考えて「報われない社会」に憤ったり、自らの信じる正義の成り立たないことに絶望したりしないからです。しかし頭が良くて真面目な人は、断絶というものを知らないと不幸になります。アホか信仰、どっちか一つは持っておいた方が身のためです。
 しかしこうして考えると、アホというのは大変な美徳で、「信じる」ことに一番近いようにも思います。大体、確かめようのないことを「信じる」というのは、それ自体結構アホなことなので、要するに「割りと真面目なアホ」が一番幸せということかもしれません。



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