真説 ザ・ワールド・イズ・マイン (1)巻 (ビームコミックス) 新井 英樹 エンターブレイン 2006-08-31 |
『キーチVS』と『愛と幻想のファシズム』のことを書きましたが、余りに面白いので同じく新井英樹の『ザ・ワールド・イズ・マイン』と、『キーチ!!』も全巻買ってしまいました。こんなに漫画を読むのは久しぶりです。
いきなり余談ですが、漫画について何かを言う、というのは(わたしにとっては)難しいです。一般書籍の場合、何でもいいから何か言えばいいなら、それなりに尤もらしいことは何か書けるのですが、漫画だと何を言って良いやらよく分かりません。
新井英樹作品は、サブカル界隈で評価が高いようなので、ヒグマドンの象徴性だの無意味な暴力だの、ユリイカっぽい話をしている人は沢山いると思いますし、今頃になって真似事をする気にもなれません。
『ザ・ワールド・イズ・マイン』も『キーチ』も、基本的な構図は通底しているのですが、表現上印象に残ったものの一つが、テレビです。テレビの画面という小道具を通じて状況が語られる、というより、風景としてのテレビが、紙面の端々を横切る。こうした表現は別に新井英樹だけのものではありませんが、彼の作品では特に気になります。それは『ザ・ワールド・イズ・マイン』も『キーチ』も、「失われた直裁性」を巡るファンタジーだからでしょう。
「失われた直裁性」とここで言ったのは、『愛と幻想のファシズム』の主題の一つである「システムに回収されない何か」のことです。これらの作品に共通するのは、「そこそこ上手く行っているシステムに対する苛立ち」と「直裁性への回帰」です。「ダメなシステム」ではありません。ダメなシステムは勿論問題ですが、ここで対象にされているのは、もう箸にも棒にもかからないようなドロドロの父権制システムなどではなく、ジジェクなら「最悪の中では最善」とでも言う、それなりには動いているシステムのことです。平たく言えば、民主主義と呼ばれる、実体なきお題目と、それを背負っていると称するシステムです。勿論、これらは「完全な」民主主義ではありません。それどころか、民主主義には程遠いグダグダの仕掛けですが、正にそのグダグダさ、「達成されなさ」こそが呪縛としての「民主主義」の核心です。なぜなら、「本当の民主主義」あるいは「これぞ民主主義」などというものは、最初からないのですから(勿論、その「無さ」故にこそ、民主主義は万能のお題目として機能している)。
システムの何がわたしたちを苛立たせるかというと、直裁性が損なわれているからです。正確に言えば、直裁性があるかのようなファンタジーを、システムが失ってしまったからです。一応のロジックとして、わたしたちは「皆で」システムに参加していることになっていますが、実際のところは、「自己責任」の理屈と一緒で、個々人の精神は常に蚊帳の外にある。わたしたちは、役に立たない一票を掴まされて、テレビの前に座らされるのです。
そう、だからテレビが気になるのです。テレビの画面は、「向こう側」にあるシステムと、「こちら側」を遮断するものだからです。
遮断そのものは実は問題ではありません。ファッショにしたところで、遮断はされていますし、多くの仕掛けで、この幕は「民主主義」より更に絶望的です。苛立たせるシステムの何が問題かと言えば、逆説的ですが、ただ遮断するのではなく、遮断幕の向こうに演出された像を映しだしたことです。わたしたちは誰もが、それが演出だということを知っている。知ってはいるが、同時に常に一定程度騙されてる。騙されているか騙されていないか知るためには、本当は幕を無視して、幕のこちら側だけで交通することこそが重要なのですが、像を映しだす幕はこの交通を徹底的に寸断します。寸断された個人は、「幻影ですよ」と言いながら幻影を提供する幕と向きあうことしかできない。それは予め「嘘」なので、嘘と看破することで打破することもできない。そうした構図がここにあります。
『ザ・ワールド・イズ・マイン』も『キーチ』も、テレビのこちら側と向こう側を物語が行き来します。それは幕のトラップが打破された、という、直裁性回復のファンタジーなのですが、実のところ、こうした方法で打破はできません。直裁性は常に既に損なわれています。繰り返しますが、本当の戦いは、幕の向こうを完全に無視し、こちら側だけで何とかしようとすることなのですが、このトラップは、そのトラップが打破されるというファンタジーも込みで、わたしたちを絡めとっているのです。
この絶望が最後に示唆される点でも、『ザ・ワールド・イズ・マイン』は『愛と幻想のファシズム』につながっています。『愛と幻想のファシズム』のファシズムで、個人的に非常に好きな下りが、一番最後にゼロが「鳩の餌」を発見する場面です。好きという割にはっきり思い出せないのですが、ゼロは朝の光の中で何かキラキラしてものを見て、それに引き寄せられます。幻惑されるように寄ってよく見てみると、それが鳩の餌だった(鳩の糞だったかな? 糞はさすがに光らないかな)、というものです。
『ザ・ワールド・イズ・マイン』で言えば、トシのマリアです。
『ザ・ワールド・イズ・マイン』の素晴らしい点の一つは、マリアが無残な最期を遂げることです。村上龍に代表されるような「女に許可されなければ何一つできない」母性ファンタジーには寒気がしますが、一方でこのファンタジーをただ排除するだけでは、物語ることができない。だから、両者ともこのファンタジーに一度乗った上で、自己否定する。新井英樹は、自らに取り付いた女性ファンタジーの気持ち悪さに自覚的であるからこそ、一旦全部引き受けた後で、マリアを寸断したのでしょう。
マリア寸断とは、物語に実際に登場するマリアが射殺されること(だけ)ではありません。終幕で示される、パソコン通信上の「マリア」の正体です。憧れの同僚が、極つまらない普通の女だった「何もなさ」。牽引力としてのマリアが、ただの女になる空虚。「鳩の餌」です。ここで呪いと幻惑は解け、トシは鳩の餌と共に無用のものとなり、無名的な死を遂げる。呪いの解けてしまったトシは、おそらくモンちゃんにとっては視界にすら映っていないでしょう。
『ザ・ワールド・イズ・マイン』は、とにかくトシの物語としては素晴らしいですが、一方でモンちゃんの絶対性が、ヒグマドンと共に最後まで解除されません。本当のところ、どこかでモンちゃんを地に堕とさなければならなかった。人間にしなければならなかった。しかし、『ザ・ワールド・イズ・マイン』の段階では、そこまでファンタジーの自己解体を徹底できていません。ヒグマドンの存在によって、「SF」になってしまっているのと並行的です。
おそらく、まだ未完である『キーチ』では、キーチ自身が「鳩の餌」と対峙する極限まで迫ることが、新井英樹の頭にはあるでしょう。それが完遂できれば、この作品は『愛と幻想のファシズム』を越えることになるのでは、と思います。トウジも夢のように去ってしまいましたから。
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