『日本人はなぜ英語ができないか』鈴木孝夫

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4004306221日本人はなぜ英語ができないか (岩波新書)
鈴木 孝夫
岩波書店 1999-07

 鈴木孝夫氏の『日本人はなぜ英語ができないか』。タイトルが良くないです。
 前から評価が高いことは知っていて、実際とても面白い本だったのですが、『日本人はなぜ英語ができないか』というタイトルだけ見ると、いかにも今時の新書風で、買う気が失せます。本書は十年ほど前の本ですから、当時としては別段「釣り」でもないタイトルだったのでしょう。
 タイトルから連想されるような、「ここを直せば英語がどんどん伸びる!」ような安っぽい内容はまったくありません。この本を読んでも別に英語ができるようにはなりません(そんな本は存在しませんが)。そんなことより遥かに興味深い、日本人と英語、そして外国語学習との関係性自体がテーマです。

 鈴木孝夫氏は、言語を語学学習という観点から三つに分類します(学習者との関係性の分類であり、言語の本質的分類ではありません)。

・目的言語
  その言語および関連文化自体を目的として学ばれる言語。朝鮮語・アラビア語など。
・手段言語
  ある学術知識や情報などを得るための手段として学ばれる言語。(かつての)フランス語やドイツ語など。
・交流言語
  それを母語もしくは日常生活での常用語としない人たちが、交流のために学ぶ言語。英語など。

 言うまでもなく、言語と学習者の関係は個々人によっても異なり、かつ、たとえばフランス語が手段言語として学ばれていくうちに、フランス文化を愛するようになり、目的言語的性質も帯びる、ということもあるでしょう(むしろその場合の方が多い)。
 ともあれ、英語はこの中でもとりわけ特殊な位置にあり、たとえばイギリス文化やアメリカの映画文化に関心を持った人が、目的言語として学ぶ場合もあるでしょうし、IT関係の技術文書読解のために手段言語として学ばれることもあるでしょう。しかし何といっても、英語の特殊性は、それが「交流言語」としての圧倒的位置づけを得ていることです。
 日本と韓国はお隣の国同士ですが、互いの国語を話せない日本人と韓国人が会話しようとしたら、おそらく第一選択となる言語は英語でしょう。わたし自身、英語でコミュニケートする相手は、英語を母語もしくは日常使用言語としていない人の場合がほとんどです。

 一方、日本の英語教育は、イギリス英語・アメリカ英語を頂点とし、インドやフィリピンなど「母語ではないが日常使用される」状況が準じ、次いで日常使用されない環境が次ぐ、といったヒエラルキー的英語観を未だに保持しています。
 その背景には、西欧諸国に「追い付き追い越せ」と、学び吸収しようとする受動的姿勢があったからだ、と著者は考えます。こうした前提であれば、イギリス・アメリカの文化的背景まで含めて「学ぶ」ことには意義があったでしょうが、今や日本は大国の仲間入りをしてしまい、むしろ発信する立場に立っている以上、逆に日本のことを英語で伝える教育がなされなければいけない、といいます。「国際理解」では発信できない、というわけです。
 ここで例にひかれる「ロシア語のできる中国人」の逸話が、ちょっと面白いです。
 ロシア語のできる著者が、ロシア語を学んだという中国人と出会った時のエピソードなのですが、彼女はロシアのことを何も知らない。彼女が教科書としたのは毛沢東語録のロシア語版で、「万里の長城は地上最大の建築物」とか、そんな話ばかりをロシア語で話せた、といいます。
 大抵の日本人は、こうした学習姿勢にいささかの違和感を抱くのではないかと思いますが、著者が日本人の英語学習に求める態度とは、(この中国人がいささか行き過ぎであるにせよ)こうしたタイプの「発信型英語」学習です。

 著者の指摘には色々頷けるところがあって、実際、日本のことや日本的感性を何とか英語で表現することができないと、いつまで経っても英語が「自分の言葉」になりません。また、学校教育で素材として使うとしたら、英米の新聞より日本の英字新聞、というのも賛成です(ちなみにアラビア語でもNHKのアラビア語ニュースは非常にわかりやすく、学習教材に最適)。
 また、次のような日本人の語学学習態度への批判にも、共感します。

 別にこれといったはっきりした目的も理由もないのに、ただ何となく外国語が自由に喋れたらどんなにいいかと思っている人が、私のまわりにたくさんいます。(・・・)ところが私の知る限り、日本以外の国では、何か特別な目的を持っている人は別として、ただ漠然と外国語ができたらいいなあとか、自分のまわりに外国語の話せる人がいると、ただそれだけの理由で、その人が羨ましいとか、まして偉いなどと考えることはまずありません。
 そして、庶民でいくつもの外国語がうまく操れる人は概して小さな国の人であるか、あるいは大きな国の中の、いわゆる少数民族の場合が多く、(大国では)一般の人は外国語ができない方がむしろ普通なのです。

 ただ、英語教育を「発信型」「交流型」に切り替えていく根拠が、日本が既に大国であり、大国としての立場を維持していくことにあるとするなら、少し疑問もあります。日本が本当に「大国」なのかは怪しいものですし、個人的には「中国」(Chinaではなく中くらいの国)でボチボチやっていくのが分相応ではないかな、と考えているからです。
 そして、戦後日本の成功の秘密の一つが、ひたすら受身に徹して、欧米諸国のモノマネをしてはコツコツ働いてちょっと工夫したものを売る、という方法にあったとしたら、安易に「受動的」なセコイ立場を手放してしまうのは、自殺行為にもなりかねません。
 交流言語としての英語を重視し、英語の日本化、日本人らしい英語で堂々と話す、ということには賛成ですが、中国やアメリカのような折伏制御し大きな声で自己主張するようなスタイルを、日本人が容易に身につけられるとは思えません。そういう人材が一定数必要なのは確かでしょうが、逆に突出してしまうと、人畜無害ぶりで何とか生き延びてきた日本のサバイバルが逆に脅かされるかもしれません。
 こういうサバイバル方法は、かなりカッコ悪いですが、もし日本人がもっと自己主張の激しい気風であったなら、戦後復興もままならなかったのでは、と思います1。復興と同じやり方では繁栄を維持できない、というのも事実でしょうが、どっちつかずの「何にもない国」になってしまうのはもっと恐ろしいです。
 既にそうなってしまっている気がしなくもないですが。

  1. 翻せば、繁栄の頂点から下り坂に向かった今、日本を覆っている虚無感には、そういう「カッコ悪さ」のツケという面もあるでしょう。どちらがより「幸せ」か、などというのは論じられない。別段カッコつけてビンボーでも良いと思いますが、今さら「つける」だけの「カッコ」がこの国に残っているのでしょうか。もしないなら、できもしないのに今さら「カッコ」路線への軌道修正など、大それたことは考えない方が身のためでしょう []