その時依然、わたしであってわたしでないものが、何か見たことのないものを見ている、それを信じて

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 何か違和感のあるもの、了解しがたいものが目に映り、それを異物としてマークするなり、排除することもできるだろう。
 そうではなく、そのような居心地の悪いものが、整って見える視点というのがあるのではないか、と考える。
 その場所からものを見てみるには、違う人間になるしかなく、別のものになることには不安と恐慌を伴う。時には越えられずに引き返す。
 「なる」ことができたとして、その先に特別素晴らしいものがあるとも限らない。ただ、違うものが見えるだけだ。
 それでも、その場所から見える風景というのが知りたいと思う。
 これは観光オリエンタリズムというのとも違って、なぜなら「なって」しまった時、元々見えていた風景はもう同じように見えないからだ。だからこそこの変化には凄まじい不安と恐怖がついて回る。
 人は変わることを恐れるし、執拗なホメオスタシスにとらわれている。なぜなら変わるというのは、米流自我心理学の示すような、コアを残しての「成長」や「乗り越え」などではなく、草一本生えない砂漠へと自らを作り変えることだからだ。そうでなければ見えない風景というのがある。
 にも関わらず、ホメオスタシスの重力を振り切って了解しがたいものを見る場所へと向かおうとするのは、「その場所からは総べてが了解されている」という点を信じているからではないか。
 その場所に立つことは人には能わないのだけれど、この世界にただ一つだけ、すべてが等しく了解され、あるべくしてあるように映る点がある。過去も未来もなく、ただ有ナリという場所が、何の根拠も確証もなく信じられるからではないか。
 正確に言えば、何の迷いもなくただ信じている訳ではない。もしそうだとしたら、生まれ育った居心地の良い場所を捨ててまで、砂漠に乗り出そうとはしないだろう。
 本当のところ、自信がないのだ。そういう絶対の視点が世界に存在するのか、その確証が得られないのだ。
 だから証明しようとする。自らの存在そのものを賭け金として差し出し、絶対の一者を確証しようとする。
 目を閉じ、再び開いても依然、世界が存在することを証明しようとする。
 眠り目覚めても、一度死に蘇っても、そこに一なるものがあることを証そうとする。
 了解しがたいものがあるべくしてあるように見るとは、そういうことだ。
 勿論、人ごときがいかに自らを燃やして全く承服しかねるものがわかってしまう場所へ旅したとして、真の証明には至り得ない。
 一つ二つ、あるいは無数の旅を繰り返しても、完全なる証明には辿り着かない。
 それで尚、やはり、諦めきれないのだ。
 その一者、唯一の点がなければ、このわたしの存在は何なのか、それが理解できないのだ。
 わたしはわたしの家を燃やすだろう。そしてわたしは家の一部なのだから、焼きだされたわたしは、もうわたしではない。
 その時依然、わたしであってわたしでないものが、何か見たことのないものを見ている、それを信じて。



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