何かがうまく行っていなかったり、惨めな境遇に甘んじざるを得なかったり、他人が自分より成功しているのを見ると、誰でも恨みがましい気持ちになり、妬みもするだろう。少なくとも、わたしはする。
そういう時に考えるようにしているのは、一つには、そこで妬んだり恨んだりしてもどうしようもない、もっと悪くなるかもしれない、ということで、今ひとつには、主がそのように書かれたのなら甘んじるべきである、ということだ。
しかしそれよりも大事なのは、試験は終わったのではなく、今なお続いているのではないか、ということだ。
恨んだり憎んだり悔やんだり嫌ったり妬んだりする時、わたしたちは大抵、何がが終わったと思っている。
もう取り返しの付かないことになってしまって、どうしてこんなことになってしまったのだろう、こんな筈じゃなかったのに、と考えている。
もうどうしようもないので、後は他人を恨んだり妬んだりして引き釣りおろすなり、それができないなりに悪態をついて憂さを晴らそうとしている。
これらはすべて、何かがもう終わっている、もう締め切り過ぎてしまった、というところから始まっている。
別に「諦めたら試合終了」などと言いたいのではない。
諦めなくても、もう全然挽回不可能かもしれない。人生、頑張ってもどうしようもないことなんて沢山あるし、むしろそういうことの方が多い。
実際、もうダメかもしれない。正直、多分もうダメなのだろう。
しかし「もうダメ」というなら、わたしたちは常に既に「もうダメ」だ。条件は常にわたしたちに先行して決定されている。産まれた条件からして違う。
どの道最初から、持てる武器で勝負しかないのだ。
両手の届く範囲でベストを尽くすすしかないのだ。
もう一つ言えば、たとえベストを尽くせず(それはとても難しいし、ほとんどの人にはそこまで「努力する才能」がない)、今ひとつパッとしない結果だったとしても、あるいは何一つ成し遂げない人生だったとしても、少なくとも主がこの世に創られた限りにおいて、「主にとっては」何か意味があったはずだ。わたしにとっても、あなたにとっても、世の中すべてにとって全く何の意味もないものだとしても、存在する以上、主にとっては何か(非常につまらないものだとしても)意味があったのだろう。わたしはそう考えている(そして是非、死んでからその意味をお尋ねしたい)。
「もうダメ」っぽくて、出来ることが何もないように見える時、あるいは本当に何もない時、その最低の中で一番マシなのは、恨みがましくならないことだ。
そういう根拠はない。違うかもしれない。でも主はそう仰るのではないかと、わたしは考えている。
つまり、テストは完了して、わたしたちがそれに落第したのではなく、今もってテストは継続中で、正にこの失敗的状況においていかに振る舞うかを、今現在テストされているのではないか、ということだ。
そういう根拠も、またない。
ただそう考えれば、最低がこれ以上最低にならないように防ぐことはできるし、それが主がわたしたちに試練という形で課した恵みなのではないかと思う。
大体、テストなどというものは、合格でも不合格でも、テストというだけで最初からクソッタレなのだ。
テストはテストというだけで常にクソだ。
だからせいぜい、一番キレイそうなクソを選ぶくらいが精一杯だ。
それでいいと思う。