アキレスと亀と神

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主に感謝する、というのは、つまり、アキレスが亀に追いつけたことを感謝する、ということだ。
走ったのはアキレスだが、無限の漸近の末ついに亀に追いついた(そして多分追い抜いた)のは、主の御業である。
これは、「知」の無限の漸近によっても「世界そのもの」には到達し得ず、その隙間に神がある、ということだろうか。そう言いたいところだが、多分違う。そう言えば否定神学と言われ、別段否定神学でも結構なのだが、それ以前に、無限の漸近は(驚くべきことに)おそらく「世界」に追いつく(そして多分追い抜く)。
漸近したのは「知」だが、追いついたのは主の御業である(そして多分追い抜いたことも)。
つまり、神は「隙間」にあるのではなく、「隙間」の無さに宿る、ということだ。
だから、素朴実在論と信仰の態度というのは、結果としては一周回ってとても似たものになる筈だ。間で「知」が神経症的に震えている。この震える不可知論的な知が、近代というものだ。
十分に愚劣でなければ、不可知論的に震えるのが道理だ。それが真摯な態度というものだ。
十分に愚劣であれば、イマジネールな世界に安住し、十分に聡明であれば、あるいはうまく馬鹿になることができれば、言葉とモノはくっついて(アルハムドリッラー、「隙間」がなくなり)、これまた安住が約束される。神経症というよりは寧ろ精神病神話的な安定。
もちろん、何人たりとも何れかの段階で安らぐことはできないので、結局のところ、アキレスは震えながら走り、追いつき、追いぬき、また次の亀に向かって走り震えるのだろうが。