あるけれど、分からない

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すべてが「パラダイム」ではないのかと疑うことはできるが、「パラダイム」ではない。
bon sensについて、よくこう考える。数学すら、一つの「文化的」な系に囲い込まれているのかもしれない。「公平に分配された」bon sensなど、ただのヨーロッパ近代の夢かもしれない。アメリカバイソンにはアメリカバイソンの理性があるのかもしれない。
そう考えることはいつでもできるが、一方で、そう考えてもわたしたちは「向こう側」に到達できるわけではない。相対的なものの相対性を担保するものは、結局手が届かない。そのような相対性を、相対性と呼べるのか、という疑いが同時にある。
だから、「あるけれど、分からない」領域というのが、一番重要になる。
単に「あると想定すると(分かりやすい、筋が通る」というのではなく、その機能と効果を確かめることはできるが、それが何なのかを直接知ることはできない、というものだ。
こう言うと否定神学と言われ、「神学的」異論のあることは知っている。また、こうした態度を生活において逐一適用することが「倫理的」に正しいとも思わない。
多分こうしたことを、一番鋭利に描出したのはカントではないかと思うけれど、勿論それもまた「近代ヨーロッパ」の夢でしかないかもしれない。
存在に疑いを持てなければ愚か者になるし、疑っているだけでは臆病者になる。



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