そこで言語は、まったく遊びのない、考える余地も迷う余地もない、打ち出されるハンマーの如きものになる

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 笑い一般について語る、などという大きな話をできるわけがないし、ところでいきなり脱線するなら、ベルクソンの『笑い』には笑いについて重要ではないことはすべて書かれている、というジョークがあり、このジョークだけは少し面白かったのだが、話を戻すと、笑いには緊張を緩和し「わたしたち」を醸成する機能というのが、それが笑いのすべてではもちろんないにせよ、あるのではないかと思う。同じジョーク、同じおふざけで笑うことには、同じ釜の飯を食うのにも似た、ただ言葉を分かち合う以上の何かが含まれる。だからこそ上司につまらないジョークを聞かされるのは耐え難いし、無理やり珍味を食べさせるのは暴力的だ。ものごとには順序があるし、逆に言えば、順序を踏んで同じご飯を食べれば仲間になる。正確に言えば、どんなに順序を細かく踏んでも踏み切れないところで、笑いが登場し、一気に場が和む、という様式を、わたしたちは備えている。
 「かわいい」にも似たところがあり、ここで言う「かわいい」はかわいいものそれ自体というより、「かわいい~」という鳴き声のことなのだが、何か一つのものに対して共に「かわいい~」と鳴くことは毛づくろいというだけでは足りない何か、容赦なく腹筋を揺さぶる抗い難さがある。これに比べれば毛づくろいにはまだコードと呼ぶに足る象徴的な秩序がある。そして「かわいい~」もまた笑いと同様、弱く愚かで儚くズレた不格好なものに向けられる。と言うと、いや違う、笑いもかわいいもそんな嘲笑的なものではない、もっと「温かい」のだ、と反論されるかもしれないが、もちろん必ずしも狭義の愚弄というわけではなく、しかし例えば、「いじり」により逆説的に対象を共同体の内部に位置づけることは、位置づけてやってもいい劣等なものとして、つまり共同体の物差しで計測しうる何かとして認める、ということであり、ここにおいて愛でることと蔑むことは等価である。そうでないものは「アウトサイダー」であり、愛でることも蔑むこともできない。笑うこともかわいがることもできないものは、恐れられ、目をそむけられるものであり、「なかったこと」にしたいもので、口にするのも憚られる。「笑いもの(かわいいもの)」と「アウトサイダー」、どっちがマシか、というのはここでの論点ではない。
 良き市民たるためには共に笑い「かわいい~」と鳴かなければならないが、言語に対して真に忠実であるためには笑うわけにはいかないし、ヘラヘラしていてはいけない。「笑ってごまかす」とはよく言ったもので、笑っていれば色々ごまかせて、なんとなく共同体の内部に留まれるのだが(笑う門には福来る!)、語ることの放棄であり、ただそれは、語り伝えることの放棄ではなく、語り伝え得ないことの放棄である。語ろうとした結果、不可能な裂け目に出会って言葉を失う前に、語らず笑って「かわいい~」と鳴いていれば、語ってさえいれば語り得たかのように振る舞える。「本気を出せば一発よ、ガッハッハッ」とでもいうような、否定神学的な共同性が醸成される。これは良き市民たるための要諦だが、社会や共同体や市民生活といった想像的なものを前にして、言語から、あるいは言語の不可能から撤退することに他ならない。
 岩のような顔をしなければならないのだ。
 本当のことを言えば、このような、伝わらないことを前提とした雑文を書いている場合ではなくて、伝わることを前提としながら伝わらないことに慄然とし、なおかつ、それが単に技量であるとか表現であるとかいった想像的なライン上で解釈できる範囲に留まらず、語の真の意味で言葉を失わないといけない。まったくもって、言葉を失うしかないのだが、ただ失ってばかりだと失っていることにも気づけないので、仕方がないから何事か語る。絞り出すように、靴擦れが猛烈に痛いのに無理に歩くように語る。そんな時、人はヘラヘラしていられるだろうか。誰も味方などいないのだ。
 一言一言がまるで礫のように固く、受け入れがたいにも関わらず、それを投げつけ投げられなければ語り得ないのなら、了解を当たり前の前提として間を飛ばすことはできない。笑いや「かわいい~」は間を飛ばす。飛ばせるほど仲の良いお友達などいない。誰もいない。
 そこで言語は、まったく遊びのない、考える余地も迷う余地もない、打ち出されるハンマーの如きものになる。



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