信仰心と言う時

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 信仰心と言う時、それはもちろん、いわば信仰の微分として信仰対象を喪失、あるいはどうでもよくなった信仰を意図しているが、たぶん、この時点で相当の言葉を尽くさないとほとんどの人には理解もできないし、言葉を尽くしたところで大抵無駄だろう。近代を経て対象を喪失した、などということではまったくなく、対象は常に既に失われている。そこが出発点であり、だからこそ改めて説明などすること自体馬鹿げている。行の中で体感しなければ意味がない。あらゆるものが行になるし、正しい行は無数にあり間違った行も無数にある。正しさからアプローチすれば必ず間違える。
 意味に囚われてると永遠にそちら側にはいけない。意味は言葉をものに貼り付け遅延させ、現状維持の幻想で人を包むものだからだ。



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