何にでも原則と例外がある。
原則があるから例外がある。
あるいは、抽象化できるものとできないもの、一般的なものと個別的なもの。属人的でないものと属人的なもの。
すべてを個別的に処理することは出来ないし、抽象化し原則を導入することで物事は合理的に進む。
そして一般的な方法は合理的であっても常に凡俗でつまらない。
そのつまらない送りバント的なものでほとんどの物事に応じるのが、人生というものだ。
ほとんどがつまらないから、時折例外が輝いて見える。
しかし本当のところ、すべては例外なのだ。
あらゆる事象は個別的でしかないのだ。
ただ個別的なものは光源のようなもので、その輝きを直視することはできない。
あらゆる事象が個別的に見える時、世界は輝いているが、その輝きに正対することはできない。
この輝きこそが、存在の輝きであり、唯一なる主の輝きだ。
主の前に跪くというのは、輝きに対し正対しない、目を伏せるということに似る。
跪く限りにおいて、輝きを主に預け、つまらない原則に帰る。
つまらない原則で粛々と物事を進められるのは、面をあげればそこに主がおられるからだ。
面を上げてなお輝きがないなら、生に意味はないし、生きている値打ちもない。
例外の輝きは主を思い出させるものだが、本当はすべてが例外なのであり、格別な例外がなくても主を思い出す(ズィクル)ことはできる。
だから主を唱念せよ(ズィクル)、と言われるのだ。
思い出していれば、分かりやすい例外がなくても、原則に耐えて生きることができる。
例外は素晴らしい。سبحان الله
しかし真に讃えるべきは、その例外を覆い隠しなお保証する力だ。
世界全体にとってわたしが何なのか、その風景を直接見ることはできないが、わたしにとっての世界の風景がそれと等価な眼差しなのだとすれば、