話せば分かると思っている人とは、極力話したくない。
そう言う人は大抵話したいだけなので、人の話は聞かないし、自分の話を伝える能力もない。
勿論それでも一向にかまわないし、別段何かを的確に説明できなくても、お喋りは機能するし意義がある。ただ退屈だし苦痛だし、その苦痛と引き換えにこちらのお喋りにも付き合わせようという物々交換的意欲も割と低いので、なるべく関わらないようにしているだけだ。
話して分かるものか。
こう書いていても、ここで書いていることがそれ程「伝わる」などと思っていない。たまに「分かった」と思う人は、大抵その人の頭の中にある何かを「分かった」だけだ。「分かった」とか「共感した」というのは大変恐ろしいもので、特にwebのような暴走しがちな環境で、一番怖いのは反対者や批判者ではなく、「分かり」すぎてしまう人だ。多くの場合、ただ単に、その人の情動的ファンタジーの中に、何かがヒットしてしまっただけだからだ。
余りに鮮明に何かが「分かる」時、大抵人は対象との連絡を絶っている。
その事に気づかないまま、人に話しかけてしまう人が、話せば分かるなどと言うのだろう。
話して分かるものか。
それでも人は、何かが「分かった」と感じてしまう時があるし、それはそれは気持ちの良いものだ。
だから、ここで「分かった」とただ言わずに、分かったことを分からせようとしてみればいい。
何かが「分かった」と思ったら、「分かった」とか「共感しました」と言わずに、自分の「分かり」を自分で書いてみればいい。
それはサッパリ「分からない」文章になるかもしれないが、それが彼または彼女が「分かった」ことのすべてだ。
その分からなさ加減にがっかりしながら、これを書いても分からないだろう、誰も読まないだろう、と思いながら、どこかに寂しく飾ってみればいい。
少なくとも、話せば分かるという希望に挫けた限りにおいて、少しは分かる話になっているだろう。
大体そんなことを考えながら、いつもものを書いている。
話せば分かる、と思っていない人の話なら、聞いてみる。だが、大抵は分からないし、分かってしまっても分かったとは言わないし、何も語りかけない。わたしも話しかけられたくない。
ただ代わりに、例えばここに何か書くかもしれない。わたしの分かったことを、分からない絶望のままに。
あたなのお便り読まずに食べました。仕方がないのでお便り書きます。