人に自信をつけさせたければ、優しくすればいい。
優しくするというのは、甘やかすということではない。良くも悪くも、介入しまくることで、要するに距離が近いということだ。
他人では、ない。
他人に囲まれて育った人間には、自信がつかない。わたしたちは、語らいの海の中に産み落とされるのであって、その海から切り離されたかのような、あるいは切り離された後の「個人」というファンタジーを土台にした、そういう世界では、わたしたちに根拠を与えるものが何もないからだ。
逆向きに考えてみる。本当は、こちらの方がリアルに感じる。
人に優しくされる、というのは、辛くないだろうか。わたしは辛い。
それだけの値打ちが自分にあるとは思えないからだ。
しかし、優しくされなければならない。優しさを受けることは、人の世に産み落とされてしまった者の義務だ。
こういう環境に長く生きれば、イヤでも自信がつくだろう。つまり、ある種の「防衛」だ。自信がなければ、優しさに耐えることができない。
だから、優しさというのは、本当のところ、あまり気持ちのよいものではない。
構ってくれるな、と思う。正直、鬱陶しい。
構ってくる人の中には、粗野で教養がなく、口性がない人も多い。というより、ある種の「教養の無さ」が、「無遠慮な優しさ」の一つの動力源になっている。だから、「優しさ」と称するおせっかいや非礼を受けて、傷つくことも多い。
優しさは、荒々しく、ひ弱な人間には耐え抜くことが難しい。
しかし、優しさは限度を知っている。
荒々しく無知であっても、狂ってはいない。
「最低限の倫理」があるというより、優しさある密な世界では、非常に早い段階で多くの介入が行われるため、結果的に「狂う」「暴走する」余地がないのだろう。
詐欺は多い。泥棒やひったくりも、まぁいるだろう。
しかし、年寄りを殺して金を奪う者はまずいないし、女を殺して食べたり、無差別に人を撃つような犯罪は、ほとんどあり得ない。
なぜこんなことが可能なのかというと、強い神様がいるからだ。
弱い神様ではダメだ。許すだけの神様では、世界は決して穏やかにならない。
一人一人が、縦のラインで勝手に神様とつながっている。
静脈の一本にまで神様が介入しているから、とても力強いけれど、よく聞いてみると、神様について言っていることは一人一人違う。それは大きな問題ではない。なぜなら、神様のことは神様に尋ねればよいし、結局は自分と神様の関係だけが大切なのだ。よほど地位のある人でなければ、神様について多少勝手なことを言っていても、放っておかれるだけだ。
わたしたちは、そんなに高級なものではない。
粗野で荒々しい優しさが、蒸し暑いほど満ち満ちている世界で、単なるおせっかいで育てられたのだ。
おせっかいがなければ、人は生きられないし、おせっかいできなければ、生きる資格がない。
介入せよ。
より良い介入の仕方については、介入してから考えればいい。
優しく荒々しく、自信に満ち、あまり変わり映えのしない世界のために。