わたしが見ているということは何によって確証されるのだろうか。
わたしは今、本当に見ているのだろうか。
目を閉じてまた開いた時、見えるこれは、わたしの見ているものなのだろうか。
これは、「これ」が「あれ」ではない、つまり「あれ」の写しにすぎない、ということを問うているのではない。
「これ」が「これ」なのか、という問いだ。
だから、「これ」を既に手にとっているわたし、そのわたしが、「これ」と名指すに足るわたしなのか、それが不安で仕方ないのだ。
アラビア語、現代思想、精神分析、信仰、雑記
わたしが見ているということは何によって確証されるのだろうか。
わたしは今、本当に見ているのだろうか。
目を閉じてまた開いた時、見えるこれは、わたしの見ているものなのだろうか。
これは、「これ」が「あれ」ではない、つまり「あれ」の写しにすぎない、ということを問うているのではない。
「これ」が「これ」なのか、という問いだ。
だから、「これ」を既に手にとっているわたし、そのわたしが、「これ」と名指すに足るわたしなのか、それが不安で仕方ないのだ。