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『イスラームの豊かさを考える』

イスラームの豊かさを考える
奥田 敦 中田 考
丸善プラネット 2011-07

 イスラーム研究者による小論集。
 読書をやめたので簡単に触れますが、面白かったのは中田考先生の二篇、間瀬優太氏による「アラビヤ語会話の「三者構造」に関する理論的考察」、松山洋平氏による「ムスリム・マイノリティとイスラーム法」でした。
 中田考氏のテクストについては、読んでてしんどくなるのですが、こういうものには触れた方た良いかと思います。
 「アラビヤ語会話の「三者構造」に関する理論的考察」は、アラビア語会話におけるアッラーという人称の役割について、言語・コミュニケーションの観点から考察したもの。これは着眼点として、個人的に非常に興味をそそられるものなのですが、紙数の制限ゆえか、割とありきたりの展開までで終わってしまっていて、少し残念です。この話だけで一冊書けると思うので、できたらそうした形で読んでみたいです。

 一番良かったのは松山洋平氏の「ムスリム・マイノリティとイスラーム法」。これは日本人ムスリムにとってはリアリティのある問題を扱っているだけでなく、あまり目にしたことのない着眼点なども示されていて、とても有益でした。
 まず、誰もが馴染みのある古典的な枠組みとして、イスラーム圏(ダール・アル=イスラーム)と戦争圏(ダール・アル=ハルブ)という二分法が示され、この戦争圏に住むムスリムの規範としてのマイノリティ法学という概念が提示されます。そして、戦争圏において宗教的義務の実践が不可能あるいは困難となった場合のヒジュラ(移住)の義務を巡る議論が確認されます。
 しかし言うまでもなく、現代における「イスラーム圏/戦争圏」が何を示すのかは、大いに意見の分かれるところで、厳密な意味での「イスラーム圏」は既に地球上に存在しないのではないか、という認識も広く共有されるところです。そして仮に「イスラーム圏」がないのだとしたら、これを再興すべきなのかどうか、という点でも、多様な意見があります。
 こうした流れの上で、ターリク・ラマダーン氏の論が紹介されます。

 このようにラマダーンは、クルアーンとスンナの中に明確な根拠を見いだすことができないこと、現代の現実に適合しないことの二点を根拠に、「イスラーム圏/戦争圏」という概念からの脱却と、イスラームの根本への「再訪」を唱える。彼が「イスラーム圏/戦争圏」が現代の現実に適さないと考える根拠は二つある。一つは、今日の世界は繋がりあった一つの村であるということ、もう一つは、現代のムスリムが世界中の諸大陸に散財しているという事実である。
 では一体、ラマダーンはイスラームへの「再訪」によって何を見出したのだろうか。それは、「中心/周辺」という新しい世界区分である。

 ではこの「中心/周辺」とは何を意味するのだろうか。

 ラマダーンはまず、ムスリムがムスリムたることの意味、世界におけるムスリムの使命を「証言」という概念に求めることから思考を開始する。彼によれば「証言」は、第一義的にはムスリム個々人の信仰の核となる概念、つまり、紙の唯一性とムハンマドの預言者性の承認を示す言葉であるが、それは同時に、ムスリムが、自分の存在を通して他社に精神性・倫理性を拡散させる責任をも表現していると言う。
(・・・)
 今日的な世界の中で、「証言」がムスリムにとっての本質的な使命であることを前提にしたとき、全世界は一つの「証言の地」として認識されると言う。ただしこの「証言の地」は均質的なものではなく、その中には「中心」と「周辺」という質的に異なる複数の空間が存在すると説明される。
(・・・)
 彼は、ムスリムの最大の使命である「証言」がその完全ない見において顕現し達成される空間は、世界システムの「中心」である「西洋」に他ならないと言う。こうして、伝統的イスラーム法学において「イスラーム圏」と「戦争圏」としてとらえられる二つの空間の関係は完全に「逆転する」のである。
 誤解してはならないのは、ラマダーンは、西洋を中心と見なす発送によって、西洋的価値の無批判な受容と拡散を説いているわけではないという点だ。そうではなく、事実としてすでに世界システムの中心となった「西洋」の中でイスラーム的な価値を顕現させることで、ひいては「周辺」にまでその価値を広め、世界全体の文明的発展に寄与することができるということが、ラマダーンの論点の趣旨である。

 これはかなり刺激的な議論で、にわかに首肯することはできないものの、一聴に値する洞察です。
 続いて、現代のムスリムが、個々人のレベルで「イスラームはこう教えている」と発言するようになったことが、近代的自我の獲得のように見え、実は「この場所」が何なのか、自らに問いかける営みとして捉えられます。つまり、もし「イスラーム圏」が消滅したのだとしたら、現代ムスリムたちに存在論的不安を惹起している、ということです。

 しかし、ここからは個人的な意見ですが、そうした不安はむしろ当たり前のもので、好機と捉えられても良い筈です。確かに古典的なイスラーム圏の概念が成り立たないと、その枠組みの中で発展してきたイスラーム法学がうまく作動しないかもしれません。しかし、すべてのムスリムが人類史における規範として「回想」する預言者صの時代は、正にムスリムがマイノリティで、右を向いても左を向いても戦争だらけだった訳で、「一体わたしのいるこの場所は何なのか」という問いに付きまとわれる、というのは、信仰者としてむしろ真っ当なことなのではないでしょうか。
 非常に多くの人に怒られそうなことを言えば、地理的な意味での「イスラーム圏」などなくなってしまって結構だと思っています。我々は散開し潜伏し、世界中どこにでも現れればいい。敵が我々から「中心」を奪うなら、バラバラになった砂塵が再びまとまるように、彼らの作った中心に再結集して言葉を発すればいい。そういう意味では、例えばロンドンなどは、ラマダーンの言う意味での「中心」になっています。
 こういう発想の問題点はそれなりに了解しているつもりですし、それで総てが上手くいくとも全く思っていませんが、わたし個人は、色々バラバラになってくれた方がせいせいして気楽で良いです。どの道アッラーはわたしの頸動脈より近くにいらっしゃるわけで、東も西もアッラーの地なのですから(こうした「個人主義的」な見方が、イスラームにとっては評価し難いことは分かっていますが、それでも信仰の半分くらいではあるでしょう)。

kharuuf

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