例えば真空中で羽と鉄球を同時に落下させれば一緒に地面に落ちる、日常的な感覚に反してはいてもわたしたちは知によってこれを了解できる。この時、直観を疎外する知的了解が深ければ深いほど、自らを納得させているすべてが同時に疑い得るのだという心許なさが裏面として滑り込む。フッサールが乗り越えようとしたのもこの心許なさだと思うが、むしろ不安な方が真っ当なのであって、二十世紀とはこの根拠のなさとそれを埋めるかのような大きな意味がせめぎ合う時代だったとも言える。そして少なくとも知的潮流としては「意味などない(命より大事なものはない)」側へと不断の疎外が続けられた。今わたしたちがいるのは、直観を裏切る知というこの喪失感自体が失われ、まるで知そのものが直観的に捉えられる世界に直接張り付いているかのような世界だが、一方でもちろん、ミクロで個別的な日常空間では依然として小さな意味が生きていて、この矛盾が矛盾として捉えられることなく平然と共存しているのが注目すべきところなのだろう。両者は離れて見ると格差や相容れなさとして映り、近づくと境目が消失し、どちらにしても矛盾のもたらすダイナミズムを発生させない。