擬態という性質を持つ生き物がいる。危険な虫の形や模様を真似して生き延びるものたちだ。
擬態というのは人間が見て「似せている」と思っているだけで、虫に「その模様はカバマダラの真似ですか」と聞いても答えてくれない(きっと答えたら擬態がバレてしまうからだろう!)。
正確に言えば、似ている模様のものが生き残っただけで、当人たちは似せているつもりもないと言える。少なくとも進化論的にはそうだ。
ここには非常にスリリングでエロティックな思考の契機があり、それはつまり、「見る以前に見られている」という視覚の性質だ(視覚をほとんどもたない生き物でも、擬態を使うことはできる)。これについてラカンより美しく語れる人を知らない。
見る以前に見られているが、見られていることすら知らないまま、見られることにより存在している。
擬態を「知る」限りにおいて、わたしたちは、わたしたちがまだ気づいていない擬態を想定できる。
人類を欺くための擬態があって、しかもまだ騙されているのかもしれない。
擬態が示すのは、「見る以前に見られている」という有り様だ。
そして同時に、わたしたちが依然欺かれている、世界に擬態として侵入している存在の可能性だ。
だが、より重要な可能性について、ここでは触れていない。
わたしたちが、欺いている可能性だ。
擬態が「見る以前に見られている」ものなら、わたしたちは、わたしたちが知る以前に、何者かを「欺いている」のかもしれない。そして重要なことに、この「欺き」が成功するために、わたしたちが欺きに対して自覚的である必要はない。「欺き」に用いられるチャンネル、例えば「視覚」自体を持っていなくても、わたしたちは「目を持つ」ものを欺けるのだ。
ラカンがどこかで、患者が恐れるのは「分析家(あるいは医師)に正しく伝えられているだろうか」ということではなく、「彼はわたしに騙されてしまうのではないだろうか」ということだ、ということを言っている。
「騙してしまう」ことを恐れるのは、わたしたちが、騙そうとしないでも騙せてしまうことがあるからだ。
誰かが欺いている。
それが誰のか、欺いている者に手をあげさせるなら、もちろん「わたし」以外にいないし、確かにそこに人間は一人しかいない(イマジネールな意味で)。しかしもちろん、その者は、わたしにとってはわたしではなく、わたし以外にとってはわたしでしかない、そういう者だ。
しかし同時に、わたしたちは、正しく人間であるために(神経症であるために)、その「わたしならぬわたし」を「わたし」として引き受けなければならない。正確には、そう勘違いしなければならない。言うなれば、わたしは、誰かを欺き得るが、知らずして欺きはしない者として、自らを欺く。
ところで、わたしは誰を欺くのか。
もちろん、わたしは知らない。
しかしまた同時に、誰とも知らぬ誰かを知らずして欺かない為に、欺き得ない者を信じることはできる。
信じるというのは、そういうことだ。
世界に擬態として侵入しているのは、わたしだ。
わたしの知らぬうちにわたしに騙されている者たちは、遥か上空よりわたしを狙う鷹であったとしても、信じるべき何かではない。その鷹やウィルスは、わたしの欺きを振りきってわたしを殺すかもしれない。良くも悪くも、その者は「見えない」なりに、地上の何者かだ(あるいは上空かもしれないが!)。
その者たちは、欺いておけばいい。
わたしをして欺かせている者は、わたしに欺かれることはないし、誰かが欺くとしたら、正にその者が欺くのだから。
挙手をさせるなら「わたし」しかいないのだから、間違いなく「わたしをして欺かせている者」は「頚の血管よりも近い」のだが、わたしではない。
しかしその差異に惑わされると、わたしたちは十分に人間ではないので、「欺かせている者」を「欺き得ない者」として「信じる」。
その限りにおいて、わたしたちは、「彼はわたしに騙されてしまうのではないだろうか」という惑いを鎮め、わたしを欺かないわたしと共に生きる。