Categories: メモ雑記

過去が圧倒的にわたしたちを飲み込んでいる

過去を肯定する、という言い方は、もちろんそう言う人々は前向きな意図なのだろうが、あまりにも雑で傲慢に映る。自己が己の過去と向き合っているかのような、そういう印象を人に与えるからかもしれない。過去はもう自分のものではない。そしてわたしたちは、巨大で抗いがたい過去を背負い、ほとんど過去に飲み込まれながらかろうじて息をしている。そのような卑小な自己と、世界そのものが対置されるわけがないではないか。わたしたちが過去を肯定する前に、過去が圧倒的にわたしたちを飲み込んでいる。
うろ覚えだが、確かスーフィーの説話で、離れ島に暮らしすべてを神に捧げて暮らした修行者の話がある。審判を迎え、修行者は問われた。「汝の行によって救われることを望むか、慈悲により救われることを望むか」。修行者は人生を捧げていたので、それにより救われることを望んだ。しかし彼の一生を費やしてなお、眼球だか歯の一本だけしか救われないと知り、慌てて主の慈悲にすがった。
過去が果たしてわたし(たち)を肯定するのかどうか、それは知らない。しかし少なくとも、自己の行いや意思において、こちらから肯定だの否定だのできるものではない。信仰とはそういうものだと思う。

kharuuf

Share
Published by
kharuuf

Recent Posts

カミユ『ペスト』

 カミユの『ペスト』を漫画化し…

6か月 ago

私信です

このポストはまったくの私信です…

3年 ago

不可知論のギリギリ一歩手前で永遠に宙吊りにされた

何が正解かわからないから人はパ…

3年 ago

体験の墓石

写真は多くの場合、最初は体験と…

3年 ago

死後の世界とはこの世界である

磯崎憲一郎が「この世界こそ自分…

4年 ago