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最強伝説黒沢とイスラーム、損得

最強伝説黒沢 1 (ビッグコミックス)
小学館 2003-06-30

 いきなりこのブログらしからぬ話題ですが、「最強伝説黒沢」を読みました。
 あの福本伸行さんのコミックです。
 親しい人の部屋にあって、最初の方をパラパラっと見た時は、絵柄的にもしんどいし、何だか読んでいて憂鬱になりそうな内容だったので、最初は受け付けませんでした。
 なんとなく気まぐれで続きを読んでみたら、段々ギャグマンガみたいになってきて、しかも最後は感動的で、涙が流れてしまいました。いや、こういう侠気な話は大好きなんですけれどね。
 このマンガの伝えているメッセージは、もうベッタベタにベタで、何の捻りもありません。貧しくても認められなくても、最低限ギリギリの挟持を持って生きろ、ということで、こう書いてしまうとオヤジの説教にもなりません。
 でも大事です。とてつもなく大事です。
 これが重要であることは、誰でも頭ではわかっているのですが、日々を生き抜くのに精一杯で、後回し後回しにしてしまうのです。でも、極端な話、そうやって生き延びたところで最後は死ぬわけです。現代社会において死が不可視化されている、というような指摘は手垢に塗れていますが、実際わたしたちは「どうせ死んじゃう」という子供でもわかる理屈から、あまりに隔離され、ツルンと管理された世界で飼い殺しにされているのです。
 
 話が飛びますが、「戒律以前のイスラーム、ケチはあかん」で、マッカ期啓示を毎日読んでいれば誰でもわかる基本的メッセージとして「ケチはあかん」ということを書きました。
 黒沢もまた、何の得にもならないことに命を張るハメになるわけですが、最後の場面では、ホームレスのおばあちゃんを守って戦うことになります。彼を動かしているのは、「弱きを助け、強きを挫く」ということですが、一般のヒーローのように華々しくこれを成し遂げるのではなく、本当はそんな損なことしたくない上、ババを引くばかりなのを百も承知で、やむにやまれず「最低限、これはアカンやろ」というラインを守っているのです。
 いやまったく、その部分だけ取り出してしまうと、こんなものは割に合う選択ではありません。だから多くの人が実践しないのでしょうし、ある意味「合理的」です。
 啓示に「貧しき者に分け与えよ」とあるのは、分け与えないヤツが沢山いたからであって(みんなが最初から分けてたら神様も敢えて言わないでしょう)、別に今の人だけが「合理的」なわけではありません。
 そういう人間の性向に抗うべく、「弱きを助ける」ことを根拠付けようとする知恵が色々ありますが、どれも間に合わせの感が否めない。所詮ネイションなる現代の偶像が弄した底の浅い小細工にすぎません。普通に考えれば、別に得しません。「損だけど、やるんだよ!」というのは尤もで、個人的には大好きですが、それだけではほとんどの人は動きません。
 
 イスラームは非常に勘定にうるさい信仰で、それはイスラームが商業社会で生まれ発達してきたから、と言われていますが、肩の両側に見えない天使が二人乗っていて一人が善行をカウント、一人が悪行をカウントしている、という話があるくらいです。ヤウムルキヤーマ(審判の日)にこのカウントが勘定されて、欽ちゃんの仮装大賞のランプみたいのがプププって点灯していって、合格ライン越えると天国、みたいな感じです(一部虚飾)。
 とにかく、イスラームでは損とか得とかいう話が、日本的感覚からするとエゲツないまでに語られます。パーやんっぽいです。
 ですから当然、「そんな訳の解らん貧乏人やら孤児やら助けてどう勘定が合うねん!」というツッコミは想定していて、「お前らの稼ぎが助けになると思っとるが、そんなもんあの世じゃクソの役にも立たねぇ。自分ひとりでやっていると思い上がったヤツは火あぶりや。与えたものには天国が待っている」と、もう何度も何度も何度もしつこいくらい語られます。
 この描写は、現代日本人の感性からは最初ベタに映って当たり前ですが、重要なのは、勘定ということを手放してはいない、ということです。
 ただ、「どうせ死んじゃう」ということが織り込まれていて、「どうせ死んじゃう」ことも込みで言うと、勘定はキッチリ合いまっせ、死んだら報われまっせ、と言っているわけです。
 
 何が言いたいかというと、「損得抜きで漢を見せてみろ!」というのはカッコイイし、わたしも大好きですが、それだけだとやっぱりちょっと苦しい。だからいっそ、損得のことは捨てないで、「それホンマに損やで」という風に持っていく方法というのがあって、実はこっちの方がものすごい長い歴史を持った伝統的な方法だ、ということです。
 ぶっちゃけ、本当に「損」なのかどうかは神様にしかわからないところもあるのですが、少なくとも「損」だと生きているうちに思えれば、「損得抜き」で行動しようとしてなかなか出来ない人の肩をちょっと押してあげられます。それだけでもものすごいパワーでしょう。
 
 人間、そうそう損得勘定抜きで動けるものではありません。
 「何でもやります!給料要りません!」とか言って来るヤツに限って、すぐ辞めるものです。そんな勢いだけで世の中生きていけません。大体、そんな勢いを最後まで貫けるのは、本当に勘定のできない困った子で、多分会社では使い物にならないでしょう。これも個人的には好きですが、社会の大勢にはなり得ないし、なったら困ります。
 ですから、勘定というのは捨てないでも良いのです。
 捨てないで、ただ「どうせ死んじゃう」を普通のこととして生の中に持ち込めばいいのです。勘定と同じくらい「どうせ死んじゃう」も確からしいことなのですから。
 
 結局、狭い意味での損得勘定が幅をきかせる(そのことによって、結局は個々人までもが生きにくい社会ができてしまう)というのは、個人の水準での自由や知というものが基本に据えられているて、その個人という幻想に義務も責任も帰るファンタジーが働いているからです。
 これについては何度も書いているので詳述しません。このレベルで話がかみ合わないようなら、個人的にはもう語りかける気もさらさらないし、武装闘争すれば良いと思っています。
 それはともかく、近代的自我などという、語らいの渦の中でうまれた最後の残りカスみたいなものを起点において、狭い損得を考えて、本当に得ができると考えているのが、実に浅はかで浅ましい。
 起こってしまったすべてが善であるような一点があり、その視点に跪くことによってしか、わたしたちの損得などというのは語り得ないのです。
 
 本当のところ、信仰のないかに見える人々も、何らかの形で「良く」生きたいという気持ちを持っています。
 ヤクザでも人殺しでも、自分の行いに一欠片の正当性を見出そうとするものですし、そのためにはいかなる詭弁を弄することも厭わないのが人間というものです。
 もう、うんざりするくらい「お前は悪くない」と言ってもらいたいのです。
 だったら、別にカッコつける必要はないじゃないですか。良く生きたいなら、良く生きればいいだけです。そこでヘンに捻るな。西洋人は小賢しいからアイツらの真似したらアカン。
 極東のジャーヒリーヤの地に「良く生きる」メソッドがなかなか届かなかったのは、地理的事情から言っても仕方がないでしょう。でもそういう方法はあるし、ものすごいわかりやすくて子供でもヤクザでも実践できますから、そういうところから一個ずつやっていったら良いんですよ。
 
 日本人ムスリムは、イスラーム圏の旦那さんと結婚された女性と、一部の宗教意識の強い方々、教養のある人が占める割合が高いように思いますが、本当のところ、現在のイスラーム復興を世界中で支えているのは、仕事もなく鬱屈した若者たちだったりします。そういうわかりやすさと力強さがある。
 わたし個人は、イスラームはとても任侠的なものだと思っているので、仕事もなく、あるいは仕事があっても、マトモな自己評価を得られず辛い思いをしている若者やチンピラ、ヤンキー、ヤクザ一歩手前、もうヤクザ、そういう領域と仲良くしていけたらいいんじゃないかな、と考えています。
 右翼もいいけど、イスラームも結構いいッスよ。
 
追記:そういえば、これを書いている時米国保険制度改革のことを考えていて、あの浅ましい保険改革反対派の連中への怒りが渦巻いていたのですが、渦巻過ぎて書くのを忘れました。アメリカにも色んな人がいて、あんなのは一握りなのでしょうが、あれを恥らいもなく叫ぶのが「表現の自由」だそうだぜ! 笑わせんなタコ。

kharuuf

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