戦場の現在(いま)―戦闘地域の最前線をゆく (集英社新書) 集英社 2005-03 |
戦場ジャーナリストによるルポルタージュなのですが、これが「戦場ルポ」と言われて普通に想定する内容とかなり違います。
まず、筆者加藤健二郎さんがジャーナリストになった理由が面白い。加藤氏は別にジャーナリストになりたかったわけではなく、とにかく「戦場」に身を置きたかった、と語るのです。少しでも戦争と関わるべく土木技師として大手建設会社で働きますが、期待していた戦争と関わる仕事はできず、退職してフランス外人部隊を志願。ところが視力が悪くて落とされてしまい、米陸軍に入ろうとするもグリーンカードがなく失格。とにかく戦場に行きたくてエルサルバドルに向かい、ジャーナリストなら戦場に入れるらしいと聞いて報道の道に入ったそうです。
そんな加藤さんの語りなので、まず軍事面を見る目が非常に鋭い。陣地の作り方から現場の「本気度」を測るあたり、突き放した見方をしていてリアルです。「戦争の悲劇」を描こうとする普通のジャーナリストと違い、変な思い入れが入り込まないのか、冷静で覚めた視点を維持できているように見えます。
面白いポイントはいくつもありますが、「戦争は『激しかった』と誇張される」というのが、とりわけ興味深いです。イラク戦争での米軍発表が明らかに戦闘を課題に発表していることを指摘し、こう述べます。
これは戦況報告の中ではよくあることで、現場の部隊がいかに勇敢に激しく戦ったのかを上層部へ誇張して報告するところで起こりうるのだ。特に勝ち戦を続けている側の軍隊は、戦況把握がいいかげんであっても、勝ってしまえば問題ないということになるので、報告は誇張されがちになるといえる。
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また、イラク側も、頑強に抵抗した、勇敢に反撃してきたとされたほうが評価が高くなる。さらに、従軍していたジャーナリストも、自分は激戦の中に身を置いて取材していたと表現できたほうが嬉しいだろう。
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そして、犠牲者数が誇張されて報道されることは、戦後復興支援をするNGOなどの組織にとっても、イラクの悲惨さを訴えて理解と支援を求めるという点では利益が一致するので、誇張報道に反論する声はほとんどない。このようにして、奇妙なことに、米軍、イラク軍、メディア、復興支援の四者の利害が一致するのだ。
また、戦場が思いのほかのんびりしていることがあることを描き、戦わずにさっさと敗走してしまう賢さにも触れられます。
おそらく、日本人にとっての戦争は、たとえ負け戦でも全力で一生懸命に戦うものなのだろう。第二次世界大戦の経験から、日本人はそのようなイメージを持たされているが、最近の戦争では、負けるとわかっている戦争で命を無駄に投げ出すことはせず、逃げて生き延びる方を選ぶと思われる。昔の日本国民と違って、いまの人は、イラクやアフガニスタンの一兵士でも、「戦争に負けても、民族が絶滅させられるわけではないし、生きていける道はある。負けて占領されてしまったほうが良い暮らしができるかもしれない」と考えられるくらいの情報と判断力を持っているからである。
日本では、「平和ボケ」という言葉が使われることが多くなっている。その言葉を借りるなら、「負けるとわかっている戦争で徹底抗戦する」などと予測する専門家たちこそが、まさに平和ボケしていたのである。現代戦の現場を知り、自分の命を危険に曝す怖さを想像できる人であれば、滅びゆく国家のために命を投げ出したい人などあまりいないことは理解できるのである。
普通「平和ボケ」という言葉は、タカ派の人が「日本は平和ボケしている、軍事に疎くてはダメだ」と発破をかけるのに使われるものですが、むしろ「平和ボケ」しているから安易に総力戦だの考えてしまう、という皮肉がここにあります。
多分、戦争が抽象的な本当の「限界状況」として映るのは、外国からやって来たジャーナリストや義勇兵にとってだけで、やむにやまれず巻き込まれてしまった人にとっては、もっと生々しく格好良くもないものなのでは、と考えさせられます。