戦場のハローワーク (講談社文庫) 講談社 2009-12-15 |
『戦場の現在(いま)―戦闘地域の最前線をゆく』に続いて、戦場ジャーナリスト加藤健二郎の著書。
と言っても、内容的にはかなりかぶっています。どちらか一冊、というなら『戦場の現在』の方が微妙にオススメかな、という気もしますが、『戦場のハローワーク』には巻頭にカラー写真があり、また具体的な金額まで出して出版社との交渉風景が描かれていますので、本気でジャーナリストを目指す人には参考になるかもしれません。
加藤健二郎は戦争を「オイシイ商売」と言うのですが、もちろん、実際には文字通り命がけで、相当バイタリティに溢れる人でなければ、そうそう真似のできるものではないでしょう。
しかし、非常に好感が持てるのが、氏がよくいる戦場ジャーナリストや社民系活動家のように「戦争の悲劇」を切々と訴えるのではなく、紛争地帯にあってもひたすら面白いことを追求していて、かつ戦争の「楽しい」一面に対して素直に接していることです。
戦争を「楽しい」と書いたら「不謹慎」と言われるかもしれませんが、どんなものにも楽しい面と楽しくない面があるのは当たり前で、そんな紋切りの反応しか許さない態度こそ、戦争を直視しない姿勢を涵養するものでしょう。『戦場の現在』のエントリで、「平和ボケ」していない人々こそ、賢く立ち回り勝ち目がなければさっさと逃げるという話に触れましたが、絵空事の悲惨な抽象物としてだけ戦争を語るのは、これも「平和ボケ」の一面でしょう。
わたしは、戦争というのは、見ていたり指図したりしている分には、楽しいものだと思っています。
『誇りを持って戦争から逃げろ! 』 中山 治
それだけではなく、多くの国や地域で、戦争は仕事もなくエネルギーを持て余している若者の力のはけ口にもなっています。『自爆する若者たち』の指摘を待つまでもなく、世界の紛争地帯の多くは、歪んだ人口構成によりユース・バルジ、つまり社会の中で居場所を持てない若者(主に男性)を抱えている国から始まっており、要するに将来の展望も持てずに鬱屈している暇な若いのにとっては、戦争は格好の娯楽であり、かつ「自分の意味」を与えてくれる存在でもあるのです。
赤木智弘さんが「希望は戦争」と言い出した時、そこには「このままでも社会の序列は変わらないし、自分は一生踏み台にされるだけの人生だ。戦争なら一発逆転もあり得るし、死んでも靖国にまつってもらえる」という思いがあったからでした。この彼の発想には大変共感を抱くのですが、これがエキセントリックな論としてしか受け入れられない日本の現状こそ、老人化し「平和ボケ」した奇妙な世界なのです。戦争とは、そういう最後の希望を携えてやってくるものであって、命の値段の安い世界なら尚の事、悪くない賭けとしてキチンと機能するのです。
もちろん、だからと言って戦争を手放しで賛美しよう、というつもりはありません。やらないで済むならそれにこしたことはない。しかし、戦争が単に資本家と大国の都合だけで引き起こされているもので、現場の人々が皆「被害者」だと考えるなら、反戦も何もうまくいかないでしょう。彼らは戦争の魅力を理解していないからです。
加藤氏の面白いところは、こういう戦争の曰く言い難い魅力、若者を引きつけるパワーというものを、衒いなく素直に表現していることです。そういう目があるからこそ、お偉いさんには袖にされても、叩き上げの司令官には気に入られたりするのでしょう。
話をまた戻しますが、もし戦争を止めようとするなら、その戦争に流れ込んでいる生=死のエネルギーそのものと向き合うしかない。これを何かで吸収でもできなければ、戦争は別の形で噴出するでしょうし、それは最初の戦争よりもっと質の悪いものになるかもしれません。
歴史的には、信仰というものが「持て余したエネルギー」のはけ口になってきた面がかなりあるし、実際、「良い信仰」にはかめばかむほど味が出てくる、良い意味での周転円的オタクギミックが満載ですから、死ぬまで勉強してもまだ飽きません。わたしも残りの人生は信仰で食いつぶそうと思っています。
一方で、その信仰を礎に起こされた戦争というのがあるのも事実で、戦争を別の方向に向かわせようとしたらやっぱり戦争になっちゃった、というオモシロイオチになってしまう可能性も否定し切れません。
でも、そうなってしまったら、戦争しちゃえばいいんじゃないですか。
別に戦争だけが世の悪のすべてではないし、レッテルを貼っても仕方がないです。「戦争」は悪だけれど「テロ」はもっと悪だから「対テロ戦争」ならオッケーって、何を笑かそうとしてるんですか。
個人的には、「正しい戦争」は存在すると思っているし、やむにやまれなければちょこっと戦争して、疲れたら逃げたらいいんじゃないかと思っていますよ。それだって、戦争前よりはいくらかマシになっているかもしれませんし、うまく戦死できるかもしれないわけですし。
尤も、国民国家なる現代の偶像のために犬死する気はサラサラありませんが。