ウォルター・J. オングの『声の文化と文字の文化』について「『声の文化と文字の文化』ウォルター・J. オング」「読み書き能力と状況依存的思考 A・R・ルリアの調査から」というエントリを立てましたが、書こうと思っていて忘れていたことを補足します。
一つは、ルリアの報告にあった、以下の個所についてです。
対照的に、たった二年間だが村の学校で勉強したことのある十八歳の少年は、おなじように組になった絵を見せられると、それをカテゴリー別に分類しただけでなく、その分類にけちがつくと、自分の分類の正しさに固執した。(強調引用者)
読み書き能力がない人々がカテゴリー的思考を受け付けない「頑固さ」については、本書を読めば自明ですが、一方で能力を身につけてしまった側も、カテゴリー的思考に固執し、かつ自分の「カテゴリーの分け方」に執着を示す、ということは注目に値します。
つまり、一旦カテゴリー的思考を習得してしまうと、ゲシュタルト的に「そうとしか見えない」状態が定着してしまい、なおかつこの象徴化自体が、個人のアイデンティティにとって重要な位置づけを得てしまう、ということです。そもそもわたしたちが「内面」と呼ぶような個人性自体が、読み書き能力と深く関連しているようですから、驚くべきことではありません。
この能力自体を手放す必要なもちろんありませんが、自らが固着している思考様式、それが「思考様式」としてすら認識されず、むしろ知覚の領域に属するかのうように感じられているもの、それが実のところ、単なる教育の成果である、という反省意識は、とりわけ異なるカテゴリー的発想を身につけた者や、カテゴリー的に思考しない者とやりとりする上で、非常に大切なのではないかと思われます。
往々にして、抽象化能力の高いものほど、その抽象化が一面的に過ぎないことを忘れがちです。
もう一つは、識字率と人口増加率の関係を語るエマニュエル・トッドの論との親和性です。
トッドも今一つ怪しい匂いの抜けない人ですが(笑)、オングの理論はトッド説の一つの裏付けとなる、というかたぶんトッドも参照しているでしょう(調べてはいません)。
トッドが識字率の向上が人口増加の抑制を招くというのは、単に適切な情報を得ることで家族計画に慎重になる、といった理由からではありません。
識字率が一定のラインを越えたところ、つまり「親の世代の大多数は字が読めないが、子の世代は読める」という状況となったところで、多くの社会には革命的混乱が起きる、と言います。これを越えた辺りから、人口増加にブレーキがかかる、としています。
つまり、識字能力がもたらすのは単なる「情報」ではなく、ものの考え方それ自体で、だからこそ社会混乱にも結び付くような思想的変化が起こるのでしょう。
ちなみに、こうした思想変化の速度というのは、識字率上昇時のインパクト以後も、文字情報の一般化自体によって、速い状態が維持されるのでは、と思います。同じ地域の世代間で、気風やものの基本的な捉え方すら違う、という事態は、識字能力の一般化による思想変化速度の向上に由来するのではないでしょうか。
文明の接近―「イスラームvs西洋」の虚構 石崎 晴巳 藤原書店 2008-02-25 |