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郷に入らば四従え

 以前に某所で、在日ムスリムの方(日本人ではないが日本語が話せる)が、「日本の慣習とどうのように折り合いをつけていますか」といった質問に対し、こんな内容の回答をしていました。
 「町内会のお祭りなどにも積極的に参加し、地域住民との親睦を深めている。ただ、神社で手を合わせる、といった宗教的行為はできない。できることとできないことがある。郷に入らば郷に従えと言うけれど、完全に合わせている人なんて、どこの世界でもいない。郷に入らば四従え、くらいでやっています」。
 最後の「郷に入らば四従え」は、最初に聞いた時は「日本人なら思いつかないダジャレだなぁ」くらいで聞き流していたのですが、よく考えるとなかなか深いです。
 世界のどんな文化でも、「郷に入らば郷に従え」的な教えは存在するでしょう。”when in Rome, do as the Romans do”然り、アラブならإذا دخلت قرية فاحلف بإلاهها(村に入ったらその村の神に誓え)ということわざがあります。
 
 大抵のことわざに反対の教えが有ることからもわかる通り、こうした教えは一面であって、闇雲に守る類のものではありません。
 例によって脱線しますが、こうした「故事・成句的な知」独特の構造は興味深いです。今日的な「科学的知」と同様に解釈してしまったら、途端に矛盾をきたして破綻するわけですが、それでも一定の示唆を有しています。最近触れてきた文脈で言うなら、丁度「音声記憶的な知」と「読み書き・抽象思考型の知」とも言えるでしょう。
 今日的なカルト宗教というのは、近代の産物としての一面がありますが、その一因は、「音声記憶的な知」を「読み書き・抽象思考型の知」として読解してしまっていることにあるように思われます。諺を文字通りに実践しようとする人はいないでしょうが、それをやってしまっているのがカルト的なるものであり、現代シオニズムなどもその一つなのではないでしょうか。

 話を戻すと、「郷に入らば郷に従え」は大切な教えですが、額面通りに取るものではありません。
 日本人だって、海外に出て現地の習慣に100%馴染んでいるかと言えば、必ずしもそうではないでしょう。できることとできないことがある。
 そして迎え入れる側にも、「外国人枠」的な寛容さというのはあって、「外国人だから」ということで許されることも色々ある。
 もちろん、絶対に越えてはいけない一線というのはありますが、そういうところさえ抑えていれば、現地で生まれ育った人よりは寛大に遇されるのが普通でしょう。
 今日、欧米では在住ムスリムへの目が厳しくなっていますし、日本でも在日朝鮮人や「外国人」に対する排斥の動きが目につくようになっています。そう言う時に、「レイシテの原則にそぐわない」等々、「郷に入らば郷に従え」的主張が振りかざされることがあります。
 しかし、誰も郷に入ったからといって、100%当地の風習に従ったりはしません。というか、現地の人だって大抵は完璧にはこなせていないでしょう。客人にはその基準がさらに緩くなるのが普通です。
 「郷に入らば四従え」というのは、ものすごいオヤジギャクですが(笑)、ある意味オリジナルの諺以上の含蓄があるように思います。

kharuuf

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