欲望のコード―マンガにみるセクシュアリティの男女差 (ビジュアル文化シリーズ) 堀 あきこ 臨川書店 2009-06 |
縁あって献本頂戴してしまいました。堀あきこさんの『欲望のコード―マンガにみるセクシュアリティの男女差』です。
主に人間関係的な筋から頂いてしまったので、実は到着するまで一体どんな内容の本なのか、著者がどういう方なのかもまったく知りませんでした。すいません。表紙でびっくりしました(笑)。
副題にある通り、マンガにおけるセクシュアリティを扱っているのですが、対象としているのは主に「性的表現を含む女性向けコミック」、すなわちレディコミ、TL、ヤオイの類です1。この他に男性向けのポルノコミックも取り上げられています。
ところが、わたしはこうした分野にまったく疎く、TLという言葉もこの本で初めて知ったくらいです。さらに、アニメ絵というか、萌え絵というのでしょうか、主に男性対象のアニメ的な女性イラストというのが非常に苦手で、視界の隅に映るだけでもしんどくなってしまうことがあります。
別段、こうしたイラストや絵柄の用いられるコミックを否定しようとかいうつもりはありません。そういうコミックが生産されて、楽しんでいる方がいる、ということは大いに結構なことなのですが、単純に生理的に辛いのです。これを「パチンコ屋のネオンをあまり目に入れたくないように、アニメ絵もあまり目に入れたくない」と表現された方がいらして、言い得て妙だと思ったのですが、別段パチンコ屋さんにもパチンコ愛好家にも恨みはないのですが、イメージ自体からダメージを受けてしまうところがあるので、できれば避けておきたい、というだけです。
そういうわけで、この本の表紙を見た時は「これは大変なものを頂戴してしまった」と恐れおののいていたのですが(すいません)、気合を入れてページをめくってみると、当然ながら本書自体は別段ポルノコミックなわけでもないですし(笑)、堅実で平易な議論を展開されているので、門外漢でもすんなり入っていくことができました。
前半では、主にフェミニズムの文脈から、ポルノ批判や肯定的理解などの「ポルノ論」がおさらいされていきます。この辺りはフェミ関連テクストの読者であれば、おなじみのお話でしょう。続いて「マンガ批評」についての概説的が述べられ、いよいよ核心のポルノコミックおよび「性的表現を含む女性向けコミック」が分析されていきます。
本書の主眼は、男性向けポルノコミック、レディコミ、TL、ヤオイの差異は、〈視線〉と〈同一化〉のあり様およびフェティッシュ志向/関係性志向という違いにある、というものですが、ヤオイにおいては〈同一化〉と同時に全体を俯瞰する第三者的視点が果たす役割が大きいこと、そして「攻め」に同一化することで「受け」を「抱く」ような迂回的〈同一化〉経路が存在する、という指摘は興味深いです。
対象となっているコミック自体には疎いため、一点個人的に非常に惹かれた箇所を紹介しておきます。
「ユリイカ」増刊『総特集=腐女子マンガ大系』の表紙に、〈視線〉〈物語性〉〈関係性〉の繋がりを例示を見出している箇所です2。
見れば見るほどエロティックで、美しいイラストです。
左手の男性がスーツ姿の男性に傘を差し出している光景を、女子小学生が見つめている。彼女の手を引く男子生徒はまっすぐ前を向き走っていて、その光景は目に入っていない。ヤオイの「俯瞰する視線」とは、まさにこの女子小学生の「まなざし」であり、彼女が見つめている後継に〈物語〉が生じることで〈関係性〉が生まれるのである。
ここで言う「俯瞰する視線」については、以下の下りがわかりやすいです。
ヤオイ読者は「受け」に同一化しているのか、「攻め」に同一化しているのか。
この問題に関しては、溝口(二〇〇〇)が述べているように、読者の視線は「受け」、「攻め」、それぞれに感情移入するケースと「神の視線」と呼ばれる「俯瞰する視線」があると考えるのが妥当であると本書も考える。
前章で述べたように、ヤオイ読者が「ホモソーシャルな関係」である「対の関係」「男性集団」に固執していること、「カップリング」が「A×B」というただ一つのパターンでの性役割の固定であることから、ヤオイ読者の〈視線〉が「対の関係」に向かっていると考えられるため、この「俯瞰する視線」の存在が大きいと考えられるのだ。
つまり「男性集団」という雲のようなものに対して、外部から向けられる視線ですが、これは同時に恋愛関係という物語の全体を外部から覗く視点でもあります。この両者がシンクロしているという点が、非常に面白い。
堀氏は触れられていませんが、これに加えて気になるのは、上のイラストでは「子供」の女の子が「大人」の「男たち」を見ている、ということです。「俯瞰」というと文字通り上から見下ろしているようですが、その視線はむしろ、子どもが大人たちの語らいを「見上げる」時のような、見えないコードの雲を見る視線に通じるように思われます。
男女を問わず、大人たちの語らいに秘密のコードが隠されていて、その符丁の欠如ゆえに言語経済(という魔法)への本格参入が許されないのだ、というファンタジーを抱いた経験のある方は、少なくないでしょう。大人たちの〈関係性〉には、何か秘密がある。もちろんこの「大人になればわかるよ」が開示される時というのはなく、someday never comesなわけで、「核心の符丁」とは符丁の無さ自体、つまり負の記号としてのファルスなわけです。
この視線が性関係を眺める視線に同期しているのは、一つには女性が「半人前」であることがあるでしょう。もちろん、生物学的な意味でも公民権的な意味でも「半人前」ではないのですが、女性の多くが感じるホモソーシャルな壁の前では、常にどこか「お客さん」です3。「半人前」が大人の性関係を「見上げる」という点で、一つ同期の契機があります。
もう一つ、〈関係性〉が前景化されるがゆえの壁、という点があります。
レディコミでもヤオイでも、女性の性ファンタジーにおいては〈関係性〉の果たす役割が重要なわけですが、この場合、男性向けポルノコミックのように〈対象〉だけが前景化され、男性役が「目なし」的匿名化を課される、という構造が取りにくい。するとどうしても直接的でわかりやすい同一化対象が、物語の中で名前を持ってしまわざるを得ないのですが、丁度男性向けポルノコミックで男性役の前景化が忌避されるように、そのもの自体が直接的に描かれてしまうというのは、逆に物語への参入を妨げる働きをも持ってしまいます。常にそうした壁が強く働くというわけではなく、実際、TLのような存在があるわけですが、壁の圧力に敏感な読者は、更なる迂回路としてヤオイ的形式を取らざるを得なくなる、と考えられます。
実はここでも、子供から見た大人の語らい、という視点がクロスオーバーしていて、この壁の力というのは、女子における母の粘着性というものと等価であるように見えます。女性にとっての母は、男性にとっての母のように、構造化された強い分離の契機を持っていません。それが故に、時にグロテスクなまでの「母による囲い込み」が残存し、「母離れできない男の子」以上の屈折した関係が生まれる場合があります。
子供が見上げた大人たちは、暗黙のコードによって駆動されているのですが、その大人の一員を成すらしい母は、自らと肉的に粘着してしまっている。この連続性は、性的ファンタジーを拒む形で働くため、何とか連続を断ち切りたい。男性の場合なら、連続は断ちきられる「べき」で、正にそのことによって性的ファンタジーが成立するため、矛盾がありません。しかし、女性にあっては断ちきられる「べき」十分な理由(サンボリックな根拠)がないため、何か別の方法で、母を自分の肉体から切り離し、性的ファンタジーを独立した物語にする必要があります。
その迂回路の一つが、この表紙の絵にあるような「大人の男たち」への視線なのではないでしょうか。イラストの中には、少年も少女もいるし、大人の男もいますが、大人の女はいない。母のない構図というのが、どうしても必要です。その必要性がとりわけ強ければ、母の肉体を持つ者は、一度ファンタジーから排除されなければならない。男性向けポルノでも男性身体は後景化されるわけですが、〈関係性〉自体がファンタジーの場合、単純に消し去るというわけにはいきません。結果として、子供が「大人の男たち」を見上げるような形で、暗黙のコードをホモソーシャルな掟に託す、という構図ができあがるのではないでしょうか(もちろん、男にとってもそこに明示的な掟など存在しない。むしろ、掟は女にしか見えない!)。
以上、よく知りもしない分野について、自分の親しい領域に無理やり引きづりこんだ勝手な「感想」です。「性的表現を含む女性向けコミック」愛好家の方に不快感を与えていたら、申し訳ございません。
ちなみに、本書を眺めているうちに段々感覚が麻痺してきたのか、短い期間でずいぶん「エロい絵」への耐性がつきました(笑)。アニメ絵的なものは、エロティックであるか否かを問わず依然としてキツいですし、レディコミも正直気持ち悪いですが、TL的なものやヤオイ的な世界なら、着いていけそうな気がしてきました。その道も険しいでしょうし、何だか怒られそうな気がするので、あまり頑張らないようにしますが・・。
男性向けでも、もうちょっと古い時代の、山本直樹さんみたいな感じの「エロさ」は結構好きです。
さらに余談ですが、あとがきを読んで堀さんという人物がとても気になりだしました。学問への志向の持ち方など、とても共感できるところがあります。