父島|kyupinの日記より。
もしお祖父ちゃんがその時、死んでいたら、僕は生まれていなかったね?
と母親に言った。(…)その時の、母親の答えだが、あっさりしたもので、
大丈夫、うちに生まれなくても他の家に生まれているから。
と言った。全く、明快な答えだと思う。
素晴らしい洞察だ。
「どうして産んだんだ」という子どもがいる。
とてつもなく「不謹慎」で「親不孝」なセリフで、「古き良き家庭」であれば、母親は泣き崩れ、父親が殴りつけるのだろう。子どもの方も、大抵は成長とともにそんな問いは発しなくなる。一つには問うだけ無駄、問うとかえって損、ということを学習するからで、もう一つには「そんな問いを発しない」倫理の内面化に成功した、ということだろう1。
しかし、この問い自体には、それが幼児的であるが故の普遍性があって、確かに生まれさえしなければ生老病死すべての苦しみは元から断たれる。苦しみを感じる主体そのものが存在しなければ、あらゆる苦しみは無い。喜びももちろんなくなるが、なくなって困る主体そのものが無いのだとしたら、一つも損はしていない。
だからもし、命というものが単に父と母がセックスして生み出されるものなら、親というのは子から恨まれて当然なのだ。「親孝行しましょう」という道徳律が存在するのは、放っておけば恨まれるものだからだ。誰もタバコを吸わないなら「喫煙者はマナーをもって」などというお説教も存在しない。
ことわっておくが、この「恨み」は、親の育て方などに対するものではない。良い家庭環境もそうでないものもあるだろうが、それ以前に「存在」を生み出したこと自体への「恨み」だ。
「どうして産んだんだ」というのは、言説それ自体としては尤もな主張であって、だからこそ頭ごなしに抑え付けるしかない。
しかし、命というもの、つまり「とにかく存在してしまう」ことが、父と母のセックスにだけ還元できないのだとすれば、話は違ってくる。
「この」親の元に(首尾よく)生まれなかったとしても、生まれること自体は不可避であって、どの道どこかの膣から世界に放り出されていた。つまり「大丈夫、うちに生まれなくても他の家に生まれているから」ということだ。
この場合でも、家庭環境の問題はもちろん残る。貧しい家に生まれたり、虐待する親の元に生まれれば、親は恨まれるかもしれない。しかしその苦しみは個別的であって、苦しむ主体そのものを生み出したことへの憎悪が向うわけではない。もとより、その両親の元に彼または彼女を送り込んだのは別の者なのだ。
貧困も虐待も相対的なものだ。完璧な家庭ではないにせよ、もしかするともっと悪い家庭に生まれていたかもしれない。それに比べればまだマシだとも思える。そしてもし自分が「どのみち生れていた」捨て子のような存在なのだとすれば、拾って育ててくれた両親は、数多くの問題を差し引いても「ありがたい」存在だと思える。
「どのみち生れていた」という諦念、これが受けいられるかどうかが、勝負の分かれ目のように思える。
多くの親が根源的憎悪の対象になっていないらしいということから、はっきりと自覚はしていないにせよ、少なからぬ人が何らかの形でこの諦めに成功しているらしい。
その過程で、「では存在そのものを作り出したのは誰か」という問いが発せられないのは、個人的には奇妙に感じられるが、少なくとも日本では、そうした問いを経ることなしに、なんとなく「自然に」存在するものだ、と受け入れられているらしい。
わたし個人としては、やはり神様を考えないでは、根源的憎悪を肉親に向けないでいることはできなかった。
そして神様は完全である以上、今わたしが享受しているあらゆる喜びや苦しみは、「最悪の中では最善」のものだったのだろう。なぜそれが「最悪の中では最善」なのか、それは知らない。神様の考えることだから、人間の想像の及ぶものではない。
存在そのものは神様が作った。
だから、わたしたちはみな、神様の「捨て子」だ。
そのまま捨て置かれず、人の子の親の元に置いて下さったことに、感謝する。
選んだわけでもなく拾った子を育ててくれた人間の親にも感謝する。
この生は、余りに不条理で、できれば存在したくなかったが、そんな壊れた機械のようなものをお創りになったのにも、何か理由があったのだろう。それでも「これ」は、「最悪の中では最善」だったのだ。
その理由が、とても気になる。
わたしのすべての単独性、すべての「最悪の中では最善」について、その理由がとても気になる。「この」世界が「この」世界であることが、とても不思議だ。
死んでから質問するしかない。
だから死ぬのが楽しみだし、せいぜい質問の許されそうな死に方をしないといけない、と思う。