言語的近代を超えて―“多言語状況”を生きるために (明石ライブラリー) 山本 真弓 明石書店 2004-09 |
言語の政治性を巡る秀逸な一冊。
多言語学習などに興味のある方なら、この国の言語状況の特異性について意識することが多いと思いますが、「母語」概念のナイーヴな受容、言語の政治的側面について、これほど意識の低い環境もなかなかありません。そうした状況にイライラさせられることのある方は、手にとって絶対損しません。わたしたちの多くが「自然」と勘違いしている言語を巡る多くの概念について、それが近代のイデオロギー装置の一部にすぎないことを、非常に平易解いてくれています。
言語は単なる意思伝達の道具ではない。それは、人間のアイデンティティと結びつき、さらに、近代に入って国家とその構成員である国民のシンボルにもなっていった。人間と言語との関係を表すのに、<母>という文字を使うのは、単に赤ん坊が母親のおっぱいを飲みながら聞く言葉だから、というだけでは説明がつかないであろう。母親が子どもを育てるのがあたりまえだということさえも、本能から離れたさまざまな文化というものをもつ人間社会では、近代の神話でしかないのだから。
では<母語><ネイティブ>といった概念は、どのような社会で生きる人間を想定して編み出されたのだろうか。おそらくそれは、もともと多言語状況にあったはずのヨーロッパ地域が、西ヨーロッパを中心に言語的近代を実現させるべく「ネーション・ステート」という概念を編み出し、「一国家、一言語」を理想として掲げるなかで作り出された、ひとつの「ものの見方」にすぎないであろう。つまり、ヒト(国民)はたったひとつのことば(国語)を話すのが理想的だというイデオロギーが流布されていった結果、それが学問の世界でも共有されてきたのだと考えられる。すなわち、ヨーロッパ産の近代言語学は、<単一言語社会>という理念型のうえに学問的蓄積を積んできた側面があるのだ。
ヨーロッパ的近代における言語とは、宗教に代わるアイデンティティの拠り所として、「想像の共同体」としてのネイションの一翼を担うものとして「発明」されたものです。ですから、言語的近代とはヨーロッパ的世俗性ともセットになった構造であり、信仰や宗教と政治性・国家の関係について思考する上でも有益です。
素材として取り上げられているものは、
エスペラント語
手話
韓半島占領時における日本語と朝鮮語
日本の帝国主義とエスペラント語(!)
南アジア、とりわけネパールの言語状況
等ですが、軸としては「エスペラント」「手話」「ネパール」ということになるかと思います。
このうちエスペラントについては、個人的に長らく偏見を抱いていました。一つには、外から見たそのコンセプトが余りに空想的に過ぎて見え、幼児的印象を抱いていたこと、もう一つは創始者のザメンホフがシオニストであったことです(但し彼の没年は1917年であり、現代イスラエルに直接連なる「シオニズム」の信奉者だったわけではない)。
そのため、これまでエスペラントについて真面目に向き合おうという気持ちもなかったのですが、本書には猛省を迫られました。
彼(ザメンホフ)は、シオニズムの目的を具体的に考えれば考えるほど、ユダヤ人が独立して国家をつくることは、自己主張のせめぎあうなかにもうひとつの自己主張を増やすだけで、そこではぶつかり合いはより拡大せざるをえないということを認識するようになっていった。シオニズムはユダヤ人自身にとっても解放とはなりえない、という想いを強くしていったのである。後に彼は次のように回想している。
だんだんわたしにわかってきたのは、シオニズムは心地よいけれど、見果てぬ夢であること、それは永続するユダヤ人問題を決して解決するものではないということでした。問題の解決は別の方向に求めなければならないのです。
こうして、ロシア人(=ロシア民族主義)への同化も、ユダヤ人の「民族化」(=ユダヤ民族主義の立ち上げとその推進)も理想として抱けなくなったザメンホフは、<民族>というもの自体を超える発想に「別の方向」を見出すのである。
エスペラントの思想はわたしの考えていたものよりずっと奥深く、改めて学んでみよう、という気持ちになりました。
その他、取り上げたいポイントが多すぎて、到底ここではまとめられません。「橋渡し言語」と「群れ言語」など、多言語理解時に非常に有用でかつ使い易いフレームワークについても詳解してあります。
ひとつだけ残念だったのは、多言語理解という意味では格好の素材であるアラビア語圏について、まったく言及がなかったことです。執筆チームに一人でもアラブ系研究者が入っていれば、さらに二まわりくらい面白い本になっていたことでしょう。
そうした観点で、本書に負けないような面白いテクストを紡げる日を迎えられるよう、自分が頑張って勉強します。