لَهُ مُعَقِّبَاتٌ مِّن بَيْنِ يَدَيْهِ وَمِنْ خَلْفِهِ يَحْفَظُونَهُ مِنْ أَمْرِ اللَّـهِ ۗ إِنَّ اللَّـهَ لَا يُغَيِّرُ مَا بِقَوْمٍ حَتَّىٰ يُغَيِّرُوا مَا بِأَنفُسِهِمْ ۗ وَإِذَا أَرَادَ اللَّـهُ بِقَوْمٍ سُوءًا فَلَا مَرَدَّ لَهُ ۚ وَمَا لَهُم مِّن دُونِهِ مِن وَالٍ
彼(人間)には前からも後ろからも引き継ぐものたち(交代で監視する天使)があり、彼らはアッラーの御命令によって彼を守っている。まことにアッラーは、民が己の事柄を変えるまで、彼らの事柄を変え給うことはない。そして、アッラーが一つの民に災いを望み給うた時には、それを覆すものはない。そして彼らには、彼をおいて擁護者などいない。(13:11 中田訳)
後に続く、追跡する、ではなく「引き継ぐ」にしたのはなぜなんだろう。たぶんこちらが正しいのだけど、「前からも後ろからも」だから「追跡する」等だと不自然だからだろうか。「交代で監視する」というのは何かタフスィールがあるのだと思う。
民はقومでناسではない。なぜقومなのか。一塊のグループの運命、民族の運命のようなことだろうか。文字通り運命共同体的な。
運命というと、わたしたちは個人の運命のことをすぐ考える。わたしも考える。そういうものが、一番原理として根底にあると思っている。
一方で「民の運命」というものがある。Saheeh Internationalでは予想通りpeopleなので、nationとかそういう話ではないけれど、やはりそこには、ただ個別の運命がバラバラにあってその全体、ということではなく、中間的なまとまりがある(イメージがある)ように思う。
イスラーム的な意味、あるいは一神教的な意味で突き詰めると主と我の関係というのが根底にあるのは言わずもがなだけれど、一方で様々な局面における中間的なもの、第三項的なものについて、ずっと考えている。これはしばしば明示されないし語られないのだけれど、伏流水的に機能している。
ない前提であるもの、というのがある。言語はそもそもそういうもので、信仰は言語なのだから、無縁でいられるはずがない。
語れるものの限界まで進めば、哲学にはなるかもしれないが、言語の臨界には達していない。
語り損ねたものへの後ろ暗さ、声の小ささみたいなもの。