たとえば、「完全なものは不完全なものである」という命題が立てられたと仮定してみよう。その場合その意味は、こうである。すなわち、
不完全なものは、それが不完全であるということによってまたそうであるゆえんのものによって、存在するのではなく、不完全なもののうちに存在する完全なものによって、存在するのである
ということ、これである。ところが、われわれの時代にとっては、この命題は次のような意味をもつ。すなわち、完全なものと不完全なものとは単純に同一であり、すべてのものは互いに等しい、たとえば、最も劣悪なものと最も善良なもの、愚鈍さと懸命さ、といったように、と。
(シェリング『人間的自由の本質』渡辺二郎訳)1
二つの概念が対置されているような時はよくよく立ち止まって眺めないといけない。それは本当に、反対物なのか? 言葉をただの概念にしてしまっているのではないか?
郵便ポストとホモ・サピエンスは対置されない。されないけれど、それはカテゴリーの壊乱とか、そんなレベルの話ではない。概念にしてしまってどんどん上澄みだけをすくっていけば、これほどの言葉でも容易に対置くらいできる。対置してしまえる、ということが言葉の力でもある。
むしろそれくらいの暴力を誇示してみたらいい。多くの人々が、殴っていることに気づかないまま殴っているのだから(これはもちろんただの皮肉であるから、本気にしないでよろしい)。問題なのは、そこで働いている倫理的な次元が看過されてしまうことだ。人々は簡単に言う。善と悪、美と醜などと。
もちろんわたしたちは言葉で語り、言葉で考える。わたしは他者の語らいにである。だからこれは、言葉を使うとか使わないとかいった話ではなくて、丁寧に使う、ということかというと、それもまだ言い足りなくて、何か言葉を発してしまう時の、その舌にまとわりつく悔悟と後ろ暗さ、それを引き受けなお語るという倫理的な決断なのである。
お前は悪くない、悪くない、だけどごめんよ、撃たなければいけない、という、この流れる時と己が一となる、常に既に巻き込まれっている倫理なのだ。
美人はブスの対義語ではないし、ブスはブスによって存するのではなくブスの中にある美人によって存するし、その美人に対して呼びかけなければいけない。呼びかけの中に美人がいる。
どんな悪人であっても、その人の悪がその人をその人たらしめているのではない。そのようにしばしば人は考えるし、その人自身も考えてしまうのだけれど、その人の中の小さな善に対して、お前は善人だ、お前は善人だ、と呼びかけなければいけない。そうしなければ世界の善というものは消えてなくなってしまうし、もっと言えば、その呼びかけ、お前は善人なのだ、どんな悪を為したとしても依然としてお前はほら、善人ではないか、という呼びかけそのものうちに、善というものが宿るのではないか。
PCをお題目ではなく真に実現する道があるとしたら、これだけしかない。
人々は簡単に考える。ブスとかデブとかハゲは政治的に正しくないと。その通り、政治的に正しくない。しかし問題はそんなところにはない。正しくないことが正しくないと、そこだけ受け取って念仏を唱えて何になるのか。
これはもちろん、「言われた人の心の痛みを知れ」などというヒューマニズムでもない(もちろん言われた人の心は痛いだろうが、そんなことが正しさを基礎づけるのではない、とはいえ、人の心の痛みなるものを礎にして人に対して良く振る舞う人々の善を否定したりはしないし、もちろんわたしは言う、あなたは善人だと)。
このことは、ブスとかデブとかハゲの反対物を考えてみればよくわかる。わたしたちはすぐに思いつくだろう、良い方の言葉を。しかしそれは本当に反対物なのか。反対物としてしかわたしたちは思考できないのだけれど(たぶん)、そのような縛りに囚われてしまっている、という、この言葉の浮上する瞬間を見よ。
完全に水面から出てしまってからではもう遅い。
美人と言いなさい。あなた自身の美人のために。