古く複雑な屈折語は、次第に簡素化し屈折的特長を失い、孤立語や膠着語に近い形へと変化していく傾向がある。現代英語が典型だが、ラテン語とフランス語・イタリア語等についても同様のことが言えるだろう。
正則アラビア語はラテン語に勝るとも劣らぬ屈折的特長を残したまま、今現在でも使われている。一億五千万とも言われる話者人口を抱え、確立当初から諸外国語との接触が多かった言語としては、驚くべきことであろう。もちろん、アーンミーヤとのダイグロシア(diglossia)という独特の背景があるわけだが、聞き取るだけならほとんどのアラブ人がフォスハーを「理解」はしているのではないかと思う1。
性数格の一致といった屈折的特長の多くは、狭義の「情報伝達」という機能について言えば、必ずしも必要ない。例えば、ジェンダーを表現する必要があったとしても、名詞が性により変化していれば、それにかかる形容詞まで一致させなければならない理由はない。アラビア語で言えば形容詞は原則として名詞に後置され、性が一致していなくても修飾対象を読み違えることはほとんどないだろう。
もちろん、屈折的特長は「伝達」にも寄与している。構文を正確に伝える上で、古い日本語の敬語のような働きをすることがある。例えば、書き言葉で
ル畏ッリッリェ リ」ル陂 リェリウリァル・ア リ・ル・隍 ル・オリア.
とあったら、このル畏ッリッリェは最初ル畏ッリッリェル盾ニ読まれ、リェリウリァル・アのところまできたところで「いやいやル畏ッリッリェル獅セった」と読み返されるのが一般的ではないだろうか。もちろん、この作業は一瞬で文全体に対して行われ、逐次的な判定が意識化されることはないと思う。また、ル畏ッリッリェル霈 リ」ル陂 リェリウリァル・ア リ・ル・隍 ル・オリア.である可能性も、当然ある。ただ、ル畏ッリッリェだけ見たら一人称単数と感じるところが、文全体の照応により二人称単数男性である雰囲気がグッと強まった、という印象を受けるのが普通ではないだろうか。
これは「文脈からの類推」というのとは違う。「文脈」という言葉をどう取るのかによるが、文の意味によって単語の統語的位置づけが決定されているのではなく、統語構造自体の内在する法則によって、構文が導かれている。もちろん、最終的な意味は、いわゆる「文脈」が決める。ただ、それ以前に「語単位でも文章の意味でもない」、中間レベルの判定があって、古い屈折言語や、その他の複雑な統語構造を持つ言語においては、この「中間領域」がとても豊かなものになる。古い日本語の敬語関係なども、同じような豊穣さを示しているだろう。
一般に、屈折語は外国人の使用が増えるに連れ、語順の固定化等により、その屈折的特長を失っていく、と言われる。ラテン語やアラビア語を学んだ人なら、誰でも納得のいく説明だろう。
気になるのは、屈折語がその特徴を失っていく、という傾向ではなく、むしろ始まりにおいて、なぜ屈折語が存在したのか、ということだ。
アラビア語のような言語と現代英語を比べると、教会建築の変遷を眺めているような気分になる。古い教会は壁が厚く柱が多く、窓も小さくて窮屈な印象を受ける。建築技術の進歩に伴い、内部の空間を広く取ることができるようになり、建築が建築自体によって支えられるような要素が取り除かれていく。
現代英語は内部を人間がのびのびと動けるよう、機能的に「進化」している(もちろん、実際には人工言語のように「のびのび」とはいかない)。一方、古い屈折言語は、居住性(=狭義の「情報伝達」)を犠牲にしてまで、言語が言語自体を支えるような、梁と梁がお互いを支えあうような、内的照応関係が重視されている。正則アラビア語に感じるのは、この「言語が言語によって支えられる」性質、内的照応に固執し、窮屈で動きにくい一方、古い教会のような闇を抱き、照応の完成された時には現代語とは比較にならない様式美を放つ力だ。
なぜ、古い言語は「壁で壁を支え」なければならなかったのだろうか。
支えなければ、崩れてしまいそうで不安だったからだ。
つまり、「メッセージの伝達」といった近代的で視野の狭いプラグマティックな「目的」以前に、そもそも言語という構造自体を成り立たせるのに、必死だったということだ。
どんなに広く明るい教会ができても、教会ごと崩れてしまっては意味がない。
そういう不安、わたしたちの多くが意識できない「唯一の言語が失われる」不安が、古い言語にはある。
一点、予め留保しておくべきことがある。
「メッセージを伝える以前に言語を成り立たせるのに必死」と言っても、「最終目的」が「メッセージの伝達」であるととるべきではない。少なくとも、わたしたちが日常的に考える意味での「情報の伝達」に囚われると、この「必死さ」は、既に喉元過ぎたもの、単なる土台工事の苦労に還元されてしまう。
そうした還元は、もちろん可能だ。だがなぜ可能なのか? 今、振り返るからだ。振り返っているのは誰か? 一番最後になって言語に「語られた」わたしたちだ。
だから、本当のことを言えば、別段言語は「必死」ではなかった。何かが機械的に、わたしたちのような感慨を一切抱くことなく、ミッションを遂行していたのだ。
多分少数派の体験として、わたし個人は「母語が失われる」という恐怖を知っている。単に精神症状の一変種としてだろうが、一時期目覚めると突然日本語がまったくわからなくなっているのではないか、という観念に取り憑かれていた。この恐怖を言葉で表すのは難しい。身に着けた技術が失われるのではなく、言語という星座から自らが追放される、という不安だ。それは根がなくなる、わたしそのものの土台が失われる、ということだ。
翻せば、「母語が突然話せなくなる」という古典的なヒステリーの症状は、言語という他者のうちに位置付けられることへの抵抗としても読める。もちろん、抵抗しているのは「わたし」などではない。言語がわたしを語るのであって、わたし-たちが最初にあるのではない。強いて言えば、「わたし」として指定された者、「産まれる前に死んだもの」、水子の霊のようなものが、抵抗している。
ただ、これらいずれの症状も、屈折語的不安とは似て非なるものだ。ヒステリー的不安はサンボリックな領域に由来するが、屈折語の不安はもっとプリミティヴで、象徴化され切らない領域に由来している。むしろ「象徴化前」という不可能な時間の中にのみ、存在する不安だ。
そう、問題はこの不安が誰の不安だったのか、ということだ。不安の主は、象徴の星座の中にいる何者かではない。そこには生者も死者もいるが、そのいずれでもない2。つまり、何かが抑圧されたのではない。
不安の主は、「不安がる必要のないことで不安になっている」のでもない。必要があるかないか、判断する主体より前の話なのだから。複雑な屈折言語は「非合理的」に見えることがあるが、その合理性自体が、十分な象徴化の進行後に成立するものだ。
今振り返ると、怯えているのは言語という他者、死者たちの集合にも見える。死者ではなく、死者の全体性だ。
だが、この表象にも不十分な点がある。わたしたちは、死者たちの集合を、死者-の-集合から切り離して想像することができない。亡霊たちは、確かに永遠に忘れ去られてしまうことを恐れているが、言語の始まりにあった不安は、もっとプリミティヴで、容赦のないものだ。
むしろ「言語ウィルス」、自動で着床し、無機質に増殖を始めるエイリアン、あるいは人類滅亡後も自動で反撃する核防衛システム、そうした表象の方が有効だ。この不安は、わたしたちの「あまりに人間的な」視界の、カキワリの向こうにある。
この不安は、動物たちが「普段と違うこと」に出会って、プログラム的にパニックを起こしているのに少し似ている。
あるいは、自閉症者の反応にも近い。自閉症者の「パターン内部での作業・行動には秀でるが、融通が利かない」傾向と、動物(一定以上の知能をもった哺乳類)に類似が見られることは、当の自閉症者であるテンプル・グランディンも指摘するところだ。
光るものを見て怯える、赤いものを見て興奮する、そうした反応に、屈折言語の不安は似ている。
つまり、ここで反応しているのは、わたしたちに生と死を同時に注ぎ込んでいる、不可逆的で無機質な<外部>の力だ。
彼らの世界は意味に満ちている。
無機質な力が意味の充溢を体験しているとしたら、奇妙だろうか。意味が世界に張り付いている、と言うべきかもしれない。
なぜ自閉症者や牧場の牛たち、あるいは一部の(神経症ではない)精神病者は「融通が利かない」のか。世界に意味が張り付いていて、他の意味で代替できないからだ。赤い色は、警告を表すかもしれないし、歓迎を表すかもしれない。そうした「切り替え」が可能であるためには、世界と意味が一旦分離してなければならない。プリミティヴな意味は「速い」。すぐさま反応し、かつ低水準に書き込まれている処理については、非常な能力を見せる。ただ「融通が利かない」。
古い教会、壁の厚い言語は、この意味の充溢と力強い速度を映し出している。言語は、あたかも世界における延長=物質3互いに途切れることなく支えあい、この世界そのものとなっているように。
世界と意味の分離、つまり象徴化とは「仮想化」であり、これにより圧倒的なスケーラビリティが獲得された。だがここでもまた、論理的な時間関係に留意する必要がある。サンボリックな<わたし>とは、正にこのスケーリングの結果生み出された流動子であり、スケーラビリティを「獲得」したのは<わたし>-たちではない。言語が、言語自体の孕んだ芽、あるいは癌細胞の萌芽から、爆発的に拡大したのだ。
言語が拡散し、意味が希釈される。不吉な言葉すら、「ただの言葉」になる。だがしかし、意味がゼロになることはない。梁の強靭な言語においても、必ず無意味な一点があるからこそ、それが言語であるように。
無意味が圧倒的になるとしたら、それは無意味が意味により支えられていることが忘れられた時だ。世界に意味はある。
新しく光に満ちた教会で、独りぼっちの自分に気づくかもしれない。空間はあまりに広がりすぎた。
だがここから、わたしたちを生み出した圧倒的な外部のdrive、意味の充溢を取り戻す方法もある。その入り口は、わたしがわたし自身について見出す、無意味さそのものだ。
わたしには意味がないが、わたしとは、意味の充溢の中にある唯一の無意味な点だからだ。
だから、「分裂病者」は、世界とわたしが裏返る経験を知る。この裏返りによってこそ、一気に世界は意味に満たされる。正確には、むしろ最初に裏返りがあり、その結果としてわたし-たちがいる。
「仮想化」は、裏返りを宙吊りにする。容易に裏返って元の低水準が露出しないように、ピンで留めて「まだ裏返るな」と留保している。時が流れるのは、宙吊りにされているからだ(意味の充溢に時間はない!)。
翻せば、「もう時が流れない時」が訪れれば、ピンは外されても構わない。わたしたちは、意味の充溢した世界そのものとなり、同時に無意味の点としてのわたしは失われる。
多分、人生の最期にはそういう時が訪れる。
そこは時のない世界なのだから、もう既に、この瞬間は不断に訪れ続けているし、世界は最初から一つなのだ。