仕事で地図周りのことを扱うことがよくあるのですが、座標やらジオコーディングやらといったものと戯れているうちに、人間の地理概念というものは「面を点だと勘違いする」ことが基本になっていると考えるようになりました。
わたしたちは、ある「地名」、空間的な名称というのは、座標平面上の点に紐付けられているとぼんやり考えています。Google Mapsで「鎌倉駅」を探せば、鎌倉駅という一つのスポットが同定されて、緯度経度が分かります。
しかし、当たり前ですが、鎌倉駅と言っても広いわけで、本当の鎌倉駅は面(実際には立体)であって、点ではありません。
なぜ点のような気がするかというと、一つには地図上ではどこかに点を打たざるを得ず、面積を持たない座標で代理するしかないからですが、今ひとつには、「鎌倉駅」が言葉だからです。言葉というのは空間的延長を持ちません。サンボリックな星座に写しとるには、肉を落としてもらわないと困る。
さらに言えば、この二つというのはほとんど一緒のことで、要するに表象代理している、ということです。
実際の地理というのは面的(本当は立体的)なものでしかあり得ないのだけれど、それを延長を持たない点に還元することで、わたしたちはイマジネールな延長体をサンボリックな星座と結びつけています。
ここで二つ、面白いことに気づきます。
一つは、では何故地図は面積を持つものとして描かれるのか、ということです。「当たり前じゃないか」と言われるでしょうが、地図に地名が載っているというのは、少し考えるとかなりヘンテコな話です。せっかく地名という形で象徴化したのに、また中途半端にイマジネールな絵の上にピンのマークやらテキストボックスを乗せて「ここは鎌倉」とかやっているのは、非常に倒錯的な行為です。もちろん、地図の絵そのものが対象の「写し」などではなく、既に象徴化された図なのですが、仮にもイマジネールなフリをしている絵の上に、「鎌倉駅」と字が乗っかっているのはかなりハイブリッドな風景です。このヘンテコな感じは、「練馬区」という文字列を地図上のどこに描画するのが正解か考えてみると、すぐに分かることです(一般的には市区町村市庁舎の位置や中心座標が代表する決まりごとになっていますが)。
もう一つはもうちょっと深みのある話で、「では面なら存在するのか」と問える、ということです。「鎌倉」と呼ばれている空間的な延長は、常識的に考えて存在はしているのですが、当然ながら、空間的延長のどこにも「鎌倉」という象徴(区切り)はありません。「鎌倉」というのは、あくまで象徴世界の星座の中にあるもので、空間そのものには鎌倉もヘッタクレもありません。しかし普通は、「実体」としてあるのは「物理的」空間の方だと、わたしたちは考えます。「物理的」空間に鎌倉は存在しないのですが、存在するのは地面がダラダラ~と続いている、あっちの方だと考えているのです。
正にこれこそが「イマジネールなもの」であり、わたしたちが日常世界で使う「存在しているもの」ですが、少し考えれば、これは存在でも何でもないのです。鎌倉という延長体をわたしたちはイメージできるし、それが「存在」だと思っていますが、そのような「存在」は存在しない。想像的なものです。さらに、その想像的なものの「向こう」に現実がある訳でもない。強いて言えば、「逆のほう」に現実がある。なぜなら、想像的なものは象徴的なものとの絡みの末に投影された写像であって、実は振り返った後ろ側にこそリアルがあるからです。
では鎌倉と呼ばれるその「存在」は実在しないのかと言うと、何か根はある。必ずあります。鎌倉が実在しないなどということはありません。ありませんが、それはわたしたちがイメージしている鎌倉という延長体ではない。その空間的イメージも、「鎌倉」という象徴的分節も、リアルな鎌倉に根を持ってはいるのですが、一体それがどこからやって来て、どのように「鎌倉」と結びついているのかは分からない。それがリアルの鎌倉です。
このリアルの鎌倉は、カマクラと四文字にまとまるスッキリ綺麗でオナラもしないようなものではなく、また閉じた境界線で区切られた空間的延長で、建長寺やら円覚寺やらがある風光明媚な街でもなく、バラバラの飛び地になって飛び散った狂った脈打つ地面です。新宿の真ん中に突然鎌倉が出現したら、それこそがリアルな鎌倉で、実際、時々突然に鎌倉の寸断死体が出現することがありますが、それが何故鎌倉なのか、わたしたちは知りません。