「神の存在証明」というのは古典的なお題で、イスラーム界隈にいると「クルアーンの真実性の証拠」みたいな話はよく聞きます。
また非ムスリムがムスリムが多数派の地域に住むムスリムに1、「なぜイスラームを信じるのか」「神の存在する証拠は」等と尋ねれば、嬉々として「証拠」を示してくれるし、場合によっては、「なぜそんな分かりきったことを尋ねるのか」と気を悪くさえするでしょう。
しかしこうした「証拠」というのは、非ムスリムにとってはまるで釈然としないもので、一体どうしてそれが証拠になりうるのか、証拠の証拠を見せて欲しい、と思うことでしょう。イスラーム教徒のわたしとしても、実にしょうもないことを掲げて「イスラーム真実性の証明」などとはしゃいでいる輩を見ると「アホか」と思います。
一方で、自称「無神論者」(実際のところは、単に宗教意識が低いか、不可知論者だったりする)にも、「では神が存在しないという証拠があるのか」と尋ねたくなるところですが、何かが「ない」ことを証明するのは「ある」ことの証明に比べて圧倒的に難しいものですから、親愛なるカーフィル君たちにそんなアンフェアな要求をするのは、一ムスリムとして謹んでおきましょう。
正しい問いは、「ではあなた方の証拠とするそれは、なにゆえの証拠たりうるのか」です。これはまた、「イスラーム世界」2を外から眺め、奇妙な「証拠」を掲げる者たちを前にした人々が、自分自身に対して問うべき問いでもあります。
証拠は、証拠自身において証拠たるのではありません。
「犯人はお前だ!」と叫んで、血と指紋のついたナイフでも取り出せば、いかにも「証拠」っぽいですが、太った猫の首根っこをつかんでブラーンとぶら下げて見せたら、「何でそれが証拠やねん!」とツッコまれます。もちろん、それは証拠かもしれないのです! ですが、それが証拠であることを納得してもらうには、証拠である証拠、あるいは証拠である証明、それが証拠であると言えるだけの言葉の連なりを示さなければなりません。
逆に言えば、血のついたナイフだって同様の「言葉」が必要なのであって、別にナイフが出てきたら即証拠になれるわけではありません。証拠の「証拠っぽさ」に騙されてはいけません。ムスリムも非ムスリムも、「証拠っぽさ」だけを見ていて、証拠が証拠自身において証拠足りうるとナイーヴに信じてしまっているのです。
勿論、信仰プロパーについて言えば、「信仰とは証明の問題ではない。神は不条理なのだ」と切って捨ててしまうことも可能です。しかし、切るのはいつでもできますし、これから語るように、最終的にはどこかで「切る」より他にないので、もう少し頑張ってみましょう。イスラーム内的なロジックでも「根拠なく信じてはいかん」「証拠は大事」という考え方は重視されています3。
重要なのは、証拠を証拠たらしめている言葉であり、ロジックです。そのロジックを基礎づけるものがことなれば、ロジックそのものも変容します。ロジックを証すものはアッラーです。ですから、アッラーの証拠により証明されるのではなく、証拠がアッラーにより証明されるのです。
勿論、非ムスリムたちはそうは考えないでしょう。だからこそ、「では貴方がたは何によって証拠を証すのか」というところを問わなければならないのです。
言葉は言葉ですから、言葉の真実性を保証するのは語る者です。究極の語る者として、わたしたちはアッラーだけを信じます。しかし別の考え方もあります。言葉がそれ自体によって一定の理を持つ、自律的なものだ、という考えです。つまり合理主義です。
この合理主義は、理性なるもの、あるいはデカルトがbon sensと呼んだものが、「万人」に遍く備わり、抽象可能である、という想定に基づいています。そう考えれば、ここでわたしたちが前にしている対立は、「神と理性」という、古典的に近代的な(!)図式であることになるでしょう。
しかしそうでしょうか。
第一に、近代的な「合理主義」以前の人々に「理性」がなかった訳ではなく、それどころか、ルネサンスを支えた近代科学精神の多くがイスラーム支配下で涵養されてきたものです。ただ彼らは、その理性が、理性自体によって立つ絶対抽象だとは考えず、何らかの形でアッラーにより基礎づけられるものだと考えただけです4。理性か非理性か、ではありません。
第二に、現代日本人の多くは、こうしたレベルで「理性」を信奉してなどは全くいないでしょう。そもそも、「神と理性」という対立項が近代初頭に本当に実在したのか、というのも大いに疑問ですが(多分に遡及的に想定された対立図式に過ぎないし、それは欧米列強の正当性を証すロジックの一端であることに帰せられる)、その点はおいておいて一端こうした「モダン」イメージを引き受けるとしても、既に理性は無効です。
では何が証すのか。酷いことを言えば、例えば「民主主義」です。
もちろん、民主主義というのは、今や単なるお題目であって、厳密な意味での物事の決め方でもなければ、体系だったイデオロギーでもありません。「とりあえず民主主義って言っとけば、それは正義だろう」という民主主義です。
そうではなく、本気で厳密な意味での民主主義を神に替えよう、という人々もいます。ローティなんかを想い出せば良いでしょう。しかし、こうした考え方はまったくメインストリームではありません。ローティを持ち出す人々も、正義のお題目に「神学的」な泊をつけようと、大僧正としての哲学者を持ち出しているだけです。
ですから、一見「理性」を負っているかに見えるものたちは、お題目「民主主義」や、場合によっては素朴ナショナリズム、素朴功利主義といった、あやふやで相対する偶像を立てているに過ぎません。
「神と理性」などという対立項は、初めから存在しません。単に「神と神」なのです。
イスラームというのは、神というものを、タウヒードという零度の域まで抽象化しよう、という運動のはずです。この考えは少なからぬムスリムに反発されるでしょうが、わたしはそう信じています。運動と言ったのは、所詮人間には、完全なイスラームになど到達できないからです。この運動は、「神と神」という対立を止揚するためのものであって、神Bに対して神Aの正当性を喚くものではありません。アッラーはお一人なのです。お一人というのは、「神と神」という事態が「想定不可能」な場所にアッラーがおられる、ということです。
ですから、最終的には、依然として「神と神」でガチャガチャやっているムシュリキーンを鼻で笑いながら、「アッラーが証拠を証拠立てる」とか言っておくしかないし、この態度は証明を重んじるイスラームの「伝統」とは相反するものになるでしょう。強いて言えば、証明を重んじるのはムスリムに対してだけで良いのです。その外にどんな証拠を持っていったところで、証拠を証拠立てるものがないのですから、すべての証拠は無効です。ダール・ル=ハルブに軽々に聖典を持ち込むな、というのは、そういう意味もあるでしょう。
しかし残念ながら、わたしたちはその戦争世界に正に居住していますから、ここでの戦いとは、彼らが実のところ「神と神」で考え続けている、ということに気づかせることでしょう。その為に一番有効なのは、実のところ神像であるのに、人々が直視しないもの、そうしたものを侮辱し破壊することです。彼らは、自らの怒りにより初めて自身の「信仰」を知るでしょうし、正にその地点から、非-信仰の信仰たるイスラームへの道、あるいはそれとの清く正しい戦争が始められるというものでしょう。