アラビア語の時制は過去・現在・未来ではなく完了・未完了を軸としている。行為がその本質において完了しているかしていないか、が中心になっていることになる。
先日アラビア語で作文している時に、ふと日本語について気づいた。
例えば、スパルタ体育教師が怠け者の生徒に腕立て伏せ50回を命じたとする。
しかし生徒はへこたれて、30回でやめてしまった。
先生は言う。「なぜやめるんだ? 続けなさい」
この時先生はなぜ「やめる」と言うのか。生徒は既にやめているのだから、「なぜやめたんだ?」と尋ねる方が正しい気がする。
「なぜやめたんだ?」というと、もう生徒は完全に腕立てという運動から離れてしまい、二度と再開しないような印象を受ける。スパルタ先生としては続けさせたいわけで、「やめるという行為は完了していない、やめようとしているけれど彼はまだやめきっていないのだ」という希望的視点からものを言っているのだろう。文法的にはどう解釈されるのだろうか。
アラビア語もややこしいが、日本語もややこしい。
しかしよく考えてみると、この例示は少し特殊すぎて適切ではなく、代わりにもっと面白い問題系を引き連れてくる。
そもそも「やめる」リェル異ほ≠ェ完了する、というのはどういう事態なのか?
ある行為が完了する、というならまだわかるが、行為の中断が完了したと断定するには、一定の観察期間が必要だ。
やめることが完了するのはいつか? それは完了形で語られるときだ。
これは単純な過去形の場合でも同じで、ある時点は、時の流れと共に少しずつ過去になっていくわけだけれど、「今この瞬間に過去になりました!」などというものはない。では、いつから過去なのかと言えば、過去形で語られた時だ。
スパルタ先生は、腕立てを過去のものにしたくない。腕立てを過ぎ去らせないためには、やめることを宙吊りにしなければならない。だから未完了で語る。未完了で語っている限り、やめることは完了せず、腕立ても終わらない。
「言葉の力」と言うのは、本当はこういうことだ。