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イスラームの内側から外に突き抜けるということ

 Twitter上で「イスラームは国によって厳しさが違うというような発言はイライラする」といった内容を不用意に呟いたところ、何人かの方に「厳しさは違うのではないか」と指摘されました。それに対し、主だったところを拾うと、こんな発言をしました。

「国によって厳しさ」の件、ムカムカするので余り言いたくないのですが、「国による」「厳しさ」の違いというスケールの取り方の時点でセンスの無さにキレそうになるだけです。現象的地域差は当然あります。しかしそれはイスラームとは関係ない。
 
大体厳しさって何よ。部活? アッラーの厳しさならどこでも一緒だ。バカバカしい。
 
要するに違うのは人間であってイスラームではない。そして自由な人間主体とそれに加えられる「外的制約」というモデルで考えている限り、どこまで行っても釈迦の掌だ。人のことなのでそれでも構わないけれど、その不自由さに奴隷的笑みを浮かべ堂々と語る野卑さが我慢ならない。
 
現象から出発することと、自分が現象から出発していると信じることは違う。大抵は前者だと思いつつただの後者で、そういう時人は現象すら見ることができていない。ファンタジーの内的言説にトラップされているのに、それに気付けない。だからまず現象を疑わないといけない。
 
言いたくないと言いつつ書くのはやっぱり気になるから何だろうな。見苦しいのぅワシ。イラッとくるのは語らいの美醜であって、対象としている現象そのものではないんですよ。面と向かってでなければ何も問題ない。イスラームは「文化」ではないので地域差はない。それと語られている地域差は全然別。
 
@DongyangHuihui 確かにそういう多様性はあるし私は肯定的に見ています。ただそれを「国による厳しさの違い」とすると、何か制度的なもの、あるいは文化的なものに還元され、肝心の部分が捨象されてしまうし、その見方を当然視する姿勢が不気味なんですね。言わずもがなでしょうが・・
 
@DongyangHuihui 人間集団と神様の問題なのに、個人と制度の問題かのように読み替えられてしまう。すると大事なところが抜ける、ということだと思います。現象としてなら「厳密に決まってそうなことが意外と決まってないのに決まっているかのように行動する」というのがミソでしょうか

 まずはじめに言い訳すると、一番最初の呟きの背景には、自分の受けた具体的な(ちょっと不愉快な)発言があり、それに対する感情的な苛立ちの残ったまま結論だけを殴り書いてしまったのは不用意でした。加えて、上の追記もいかにもカリカリしていて、素朴な気持ちでリプライして下さった方に申し訳なかったな、と思います。すいません。
 幸いDongyangHuihuiさんが絡んで下さり、最後の対話のあたりは割とまとまってきたかと思うのですが、全然言い切れてはいません。まったく舌足らずです。
 ではこうして字数に余裕のある環境ならちゃんと語れるのかというと、その能力すらありません。結局、大体上に書いた程度のことしか言えないのではないかと思います。強いて言えば、ムスリムの多様性とイスラームの唯一性の間には分かりやすい乖離があるのですが、その乖離はイスラーム自体の中に「人間の絶対的無力とアッラーの絶対性」という形で折り込み済みであり、この限りにおいて、依然としてムスリムはイスラームの文脈で語るしかない、と、これまた意味不明瞭なことを付け加えるくらいです。
 それなら何故エントリを立てたのかというと、イスラームのロジックで語ることと、外の文脈との関係、ということに触れたかったからです。
 
 上のTweet引用からでも察することができると思うのですが、ここで述べているのはイスラームの内側のロジックであって、イスラームを文化人類学的対象として眺める視点からのものではありません。そういう目で眺めるなら、なるほど地域差は歴然としていますし、特殊近代的な人間観を前提とするなら、何か外的規律群みたいなものがあって、その「厳しさ」の度合いが違う、と解釈しても無理なからんと思います。結果としてのムスリムの振る舞いには勿論地域差はありますし、上記の通りわたしはこれをポジティヴに捉えています(捉えようと頑張っています)。
 しかしそれは、イスラームを「文化」のように外から眺めたお話であって、イスラームのロジックではありません。「『外』の人と対話するなら、外のロジックを使うのが当然ではないか」「イスラームの中の理屈なんて、ムスリム以外にとってはどうでもいい」という指摘があるでしょう。それも一理あります。
 しかし第一に、「外」に公平な共通の確たるディスクールがあるかと言うと、それはまったくのファンタジーです。イスラームを「宗教・文化 > イスラーム」のコーナーに放り込んで整理するカテゴリー的世界観が、「わたしたち」の間で公平なるものとして共有されている、というのは幻想です。そこで公平な知の地平だと想定されているものは、既に十分に政治的に汚染されているわけで、強いて言えば、それを共通のディスクールとして認めないものは、領域国民国家日本の領民として相応しくない(政治的に正しくない!)、劣位に置かれても仕方がない、という囲い込みがあるだけです。そして当然、ここで言うイスラームのロジックは、この語らいとはちゃんと敵対しますから、キチンと劣位に置かれているわけです。
 第二に、ムスリムの立場として、イスラームについて非ムスリムに語るとしたら(オープンな環境で日本語で語るということは、ほとんど必然的に非ムスリム読者を視野に入れなければならない)、その場合は一端「中」のロジックをおいて、「外」のロジックに合わせて語った方が良いのではないか、その方が通じるのではないか、という意見があるでしょう。
 少なからぬ日本人ムスリムがこう考えるのではないかと予想されますし、彼らの誠意について微塵も疑うつもりはありません。また、この方法に一定の利得があることを認めるにもやぶさかではありません。とりわけ、イスラームそのものというより、イスラームに付帯的な文化現象について語るなら、「外」のロジックに乗って語った方が、双方にとってメリットが大きいのではないかと思います。
 しかし、イスラームの核心に近い内容になればなるほど、この方法はリスクを孕んだ不適切なものになっていきます。「真のイスラーム像が伝わらないから」というのも、一つあります。しかしそれより大きな危険は、この方法では、いつまで経ってもイスラームを「対象として自分とは無関係なものとして見る」立場を脱することができないのです。
 「関係ないんだから当たり前じゃないか」と言われるかもしれません。しかし、イスラームが単なる文化現象でなく、真に信仰であるのだとしたら、これとまったく無関係に存在している者などいませんし、別段イスラームを持ち出さないでも、すべての人間は常に既に政治的関係性の中に巻き込まれています。
 ですから、敢えて政治的に、イスラームのロジックをもって外に対して語る必要があります。ここで言う政治性には、日本人へのダウワという要素も含まれています。狭義のダウワということではありませんが、ムスリムがイスラームについて語るとしたら、その全体がパフォーマティヴな意味で、極めて広義のダウワとして機能して然るべきです。そして、このことを念頭に置くと、「外」の理屈に従う、あるいは「外との折衷案」を摂るというのではなく、逆にイスラームの中の中の深奥の部分から、一気に外に突き出る、空間を捻るような方法が必要です。
 逆の言い方をすれば、外の人々の内奥の部分に、イスラームを発見する、ということです。表層においては「中」と「外」という分かりやすい線が引かれるわけですが、そこに注目していては、いつまでたっても連絡通路は開かれません。イスラームの深奥から外部に通じる、まるでイスラームに縁のない現代日本人の深奥からイスラームに通じる、そういう道を探したいのです。これは、今までに何度か触れた「実はもう自分はムスリムなのではないか」という発見につながる道です。
 当然これは、言うは易く行なうは難しな道なので、他人に期待する気はさらさらありませんが、わたし個人については、それができなければ日本語でオープンに書いている意味もないし、何よりまるで知的興奮がなく退屈です。退屈すぎると人間は病気になって死ぬし、アッラーからお預かりした生命を雑に扱うわけにはいきませんので、わたしはこれについて考えていきたいと思っています。
 イスラームの内的理屈をぶつける、という行為は、相手に少なからぬ不快感を与えるものです。ぶつけられる相手がムスリムであっても、時に不快でしょう。少なくともわたしは、時々不快で辛いです。
 しかし、この不快感、違和感こそが出発点で、そこで味わったザラザラしたものを手がかりにしてしか、真に無気味なものの発見、つまり自分自身であるところのイスラームの発見には繋がらないはずです。
 心地良い折衷案だけ前にしていても、その人は対象を眺めているつもりで、自らが知らない間に背負わされた政治的ディスクールの輪を出ることはできません。違和感とは、自分の背中に書かれた名前を発見するための手がかりなのです。
 
 本来わたしにはイスラームについてこんなに厚かましく語る資格はありませんし、日本人ムスリムの方には苦々しく眺めている方もいらっしゃるだろう、ということは自覚しています。その上非ムスリムにも不快に思われたら、四面楚歌で泣きそうです。もうほんと、先回りして何重にもゴメンナサイして許してもらいたいです。
 ですが、発言の政治性を引き受けないことには、走りながら銃を撃つこともできないわけで、アッラーの助けにより、何とかトリッキーなテクストが作り出せないかと模索しています。
 まぁとりあえず、サービス悪くてすいません。

kharuuf

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kharuuf

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