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退屈な革命と退屈な信仰

 スガ秀実氏が、「革命というのは欲望ではない、欲動なんだよ」と発言したそうです。
 中川文人氏が昔の仇敵である松尾氏に憧憬を隠さないのは「欲望」であり、「革命というのは欲動であり、もっと退屈なものなんだ」という流れだったらしいですが、現場に居合わせていなかったので違うかもしれません。
 ただ、この断片からだけでも、スガ秀実さんという方のキレ具合はよくわかります。中川氏のお話は非常に面白いのですが、彼を駆動しているのは、どこか「社会-内」的なシステムであって、思想的にはマルキシストでも、実は非常に保守的なものが基本にあるように見えます。こんなことを書いたら怒られるかもしれませんが、中川氏は「マルキシスト」であっても「革命家」ではないのかもしれません。
 似たことは外山恒一氏にも言えて、彼は非常にラディカルでかつ正確なことを言っているのですが、基本的に「欲望」の人です。彼が現在極右を自称するのは非常に正しいですが、右派革命家としては、何かが足りない。それは彼が面白いからです。革命というのは、もっとつまらないものでしょう。
 
 だから真の革命はとても難しい。なぜなら、つまんないから(笑)。
 
 ところで、信仰こそ欲動に由来します。信仰は退屈です。退屈さが中心にあり、その周辺をめくるめく欲望が覆っている。
 革命と似ていますが、信仰の良いところは、はじめから退屈さが前面に押し出されているので、退屈でもそんなにびっくりしないところです。
 
 上のスガ秀実氏の発言を聞いたのと同じ時に、「完全な無神論と洗練された一神教は区別できるのか」という問いを投げかけられました。
 全然違う話題のようで、連続しているところがあります。
 結論から言えば、おそらくこの両者は区別できない。同時に「完全な無神論」も「洗練された(完全な)一神教」も、地上では実現不可能でしょう。
 ただ違うのは、「完全な無神論」の方向、あるいはコミュニズムの方向というのは、その終着点の理想型に到達しないとパーになってしまう、あるいは全然違う方向に捻れてしまう、ということろです。「完全な無神論」はオールオアナッシングで、非常に厳しい。
 その点、信仰というのは、60点でも60点なりの結果を出せる、という性質があります。なぜそうなのか、と言われるとまだうまく語れないのですが、もしかするとただ単に、60点なりにそこそこやっていけるような信仰でないものは、歴史の過程で淘汰されただけかもしれません。バカでもバカなりにできなければ信仰ではない。
 
 100点へのこだわりという邪念については、右に出る者はいないくらい汚れたワタクシなのですが、ある時点で「もう自分には100点は無理だ」と諦めてしまいました。
 「諦めてしまった」というと、何だか残念な感じですが、どうやって諦めるか、どうやってものを作らないか、どうやってクルクルパーになるか試行錯誤してきた結果、見事クルクルパーになれたので、自分では成功だったと思っています。いや、試行錯誤なんかしないでも、歳をとれば誰でもこうなるのかもしれませんが。
 とにかく、個人的には、100点取らないと全部パーみたいなものには乗り切れないところがあって、クルクルパーなりに60点くらい取れればいいかなぁ、パーだから60点も厳しいかなぁ、などと思いながらボチボチ生きています。

ポスト学生運動史―法大黒ヘル編 1985~1994
中川文人 外山恒一
彩流社 2010-01-28
kharuuf

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