大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史 (中公新書) 中央公論社 1995-06 |
非常に面白いです。
ポイントはいくつもあるのですが、一点取り上げるなら、教育における平等主義についての、日本の特殊性、という点。
教育の平等が重要なのは言うまでもありませんが、日本ではこれが能力主義への過剰な批判へと繋がってしまいました。欧米でも能力主義、能力別学級などが批判を受けることはありますが、それは「低水準のクラスが低所得者の子供ばかりで占められてしまう」、つまり社会的生活レベルの違いが、そのまま学力の違いになってしまってはいけないだろう、という趣旨によるものです。対して、高度成長期に定着した日本の能力主義批判は、素質による違い、という点を否定、あるいは極力捨象し、「誰でも頑張れば100点が取れる」という学力観を作り上げました。
はっきり言えば、「誰でも頑張れば100点が取れる」というのは嘘です。学力において、素質による差異があるのは明白です。この差異すら否定し、「頑張れば報われる」という機会平等が声高に主張された結果、教育機会は確かに拡大したのですが、「皆が等しく参加する」ということは、皮肉にも競争の激化に繋がってしまうのです。
また、本書では「エリートすらもが能力の均等性を信じすぎる」結果、社会階級や教育レベルによる態度の使い分け、という、ある種の国々では当然の振る舞いが習得できず、海外生活などで苦労する、という点も指摘されています。ただ、この点についてのみ言うなら、別の国ではその国の常識に照らして振る舞いを適応させるスキルというのが欠けているだけであって、エリートが慈しみをもって大衆に接すること自体は悪ではないと思いますが。
「やればできる」というのは、一見希望があるようですが、逆に言えば「できないのはやっていないせいだからだ」と、応分以上の成果を期待される結果にも繋がります。
残念ながら世の中は不平等なので、やってもできない人がそれなりの扱いしか受けられない、というのは受け入れて頂くしかありませんが、できないことを受け入れた人に、更に鞭打って頑張らせるのは無益です。
「可能性は無限大」なファンタジーは、鼓舞的ではありますが、あまり本気で信じすぎると、失敗し傷つくのを恐れるあまり、応分の能力すら発揮できないひ弱な人間を育ててしまう場合もあります。人間、持って生まれたものは「無限」ではないし、人生でできることも限られています。可能性を称揚するのも結構ですが、応分を受け入れ、ほどほどに生きる技術を教えるのも大切なのではないでしょうか。それぞれの階級にそれぞれの生き方があり、それぞれの誇りがあるのです。
余談ながら、なぜこうした「過剰な可能性神話」「過剰な平等神話」が成立したのかな、と考えると、日本ではヒューマニズム、人間主義に対するブレーキがなかったからではないのか、という点を思いつきます。
近代化の一側面は、人間が世界の中心になったことですが(「やればできる」)、同時に、これが行き過ぎると、存在根拠や「生きる意味」といった人間には答えようのない問いまで一人間が背負わされる結果もなります。おそらく、一神教的文脈の強い世界では、社会そのものが「脱宗教化」する一方で、世俗から分離された聖性というのが温存され、これが一定のブレーキとして働いていたのではないでしょうか。
わたし個人は、このような聖俗分離による脱宗教化には疑問を抱いていますが、分離された弱い神すらいなかった戦後民主主義では、より一層悲惨なヒューマニズムの暴走があったのではないか、という気がしています。
可能性は要らない。自由も要らない。「応分の平等」を担保する一者だけしか信じない。