努力したからといって必ずしも報われるわけではない、などということは、普通の大人なら誰でも知っています。子供でも知っているでしょう。
「頑張った人が報われる社会を」などというスローガンが、小綺麗な方便に過ぎないのはもちろんですが、忘れてはならないのは、これが「嘘くさい努力目標」であるだけでなく、マイナスの効果すら発揮してしまう、という点です。
「頑張った人が報われる社会」は、ただ実現が困難なだけで、理想としては美しいものなのでしょうか。
努力が報われる、と言えば聞こえが良いですが、逆に言えば結果がすべて努力に関数従属し、すべての責任がわたしたち自身の意図的選択と行動にかえってくる、ということです。
しかし、わたしたちは、自らの生のすべてを意志において選んでいるわけではありません。意図的に選んでいることもあれば、不本意にもやらざるを得ない場合、特に好きでも嫌いでもないけれど何となく惰性でやっている場合、意識すらできずに「人類学的遺産」を踏襲してしまっている場合、そうした要素も非常に多いです。そもそも「生」そのものが本人の意志による選択ではないわけですし、生きるというのは、選んだわけでもない具体的境遇の元に無理やり送り付けられ、引継ぎ資料もないままとりあえず切った張ったしながらしのいで行く、ということです。
もちろん、親であれば子供を選んでいるのかというと、そんなわけはなく、百歩譲って子供をもうけること自体は選んだとしても、どんな子供が出てくるかまでは予想もつかないし、親の思った通りに子供が完璧に育つなら苦労はありません。
そうした諸々を誰が決めているのかと問われても、具体的な人の手を引いてきて「この人です」などとは答えられないのが普通です。せいぜいのところ「みんな」「そういうものだから」という程度であって、単なる偶然が積み重なっているのが人生というものです。
もちろん、意識的に努力する、ということはあります。
そして努力すれば報われて欲しい、というのも当たり前です。別段、努力が報われることを否定しようというのではありません。一定の領域で、なるべく結果が努力にリニアな関係を持つ社会を目指す、というのは、悪いことではありません。
ですが、理想をそこにだけ置いてしまうと、「結果が出ないのは努力しないからだ」と、すべての責任が個人に返っていくだけの、隙間のないギスギスした世界になってしまいます。
人間、そんなに物事思い通りにできるものではないし、うまく行ったことだって、自分一人の努力の結果ではありません。一人でやっているつもりでも、他人が助けてくれたり、ラッキーが重なって、良い結果が得られているのです。
「結果が出ないのは努力しないからだ」「この結果はわたしの努力の成果だ、誰にも渡すものか」。「頑張った人が報われる社会」という理想の裏側には、こういう余裕のない実像が付いて来るのではないでしょうか。
努力が必ずしも報われない一方、努力しないでも手に入るものはあります。
「努力なしで手に入るものなんてない」というのは、自己責任の元に社会を分断し管理しようとする権力に都合の良いファンタジーに過ぎません。
五体満足で生まれてきた人も、別に努力などしていませんし、去年交通事故にあわなかったのも、ほとんどの場合努力の成果ではありません。さらに、前述のように他人が助けてくれたり、ただの偶然だったり、大して努力もしていないのに手に入れているものが沢山あります。
それを忘れて、というより忘れたフリをして「わたしの努力の賜物だ、わたしだけに権利がある」と喚くのは、痛いところを突かれてヒステリックになっている、単なる防衛反応です。
「努力しないでも手に入るものはある」。それを認めてしまえばいいじゃないですか。悪いことでも何でもありません。
そこで素直になれないから、努力や労力を結果に換算し測り、狭隘な精神に嵌り込んで行くのです。
寝ていてお金が儲かっても、悪いことではありません。
悪いのは、「努力しないでも手に入るものはある」という単純な事実から目を背けようとすることです。そして、こうした「人間個人の意志を越えた」働きに対する、正しい反応の仕方を怠ることです。
怠るというより、ある種の社会では既にこうした力への反応が失伝されています。あるいは、個人主義的・世俗主義的システムのために抑圧されているのです。
正しい反応の仕方とは、感謝し、太っ腹になることです。
そこで得た「拾い物」は、絶対的の恵みにより得たものです。だから地に額をつけ、感謝しなさい。
そして「拾い物」は、あなた一人の努力で手に入れたものでもなければ、あなた一人に与えられたものでもありません。ただの預かり物です。だから太っ腹になりなさい。分け与えなさい。
悪いのは、寝ていてお金を儲けることではなく、儲けたお金を独り占めすることです。
悪いのは、努力しないことではなく、ケチになることです。
わたしたちの存在そのものが、絶対的からの圧倒的贈与(あまり嬉しくもない贈与!)により押し付けられたものです。わたしは、なぜわたしがわたしであり、わたしが存在しているのか、そんなことは知らない。
だから感謝し、「みんな」に対してお返しをするのが精一杯です。
繰り返しますが、努力が報われること自体は、悪いことではありません。一定の領域では、実現を目指して良いでしょう。
また、「努力しないでも手に入るもの」があるからといって、努力しないでよいわけでありません。「努力しないと入手がかなり困難なもの」は沢山ありますし、理想社会に到達しないでも「比較的結果が努力に比例するもの」だってあります。
ですが、「頑張った人が報われる社会」というだけでは、あまりにも「ヒューマニズム的」であり、努力以前の一番大切なことが忘れられています。
わたしたちは、もう既にかなり「報われて」います。頑張りの後で「報い」が来るのではなく、一番最初にあるのは圧倒的な贈与、わたしたちの存在そのものであり、「報い」です。「報い」の後で、はじめて努力ができるのです。
そこに対する感謝と謙虚さを忘れては、努力がいかに報われても、きっとその人は幸せになれないでしょう。彼または彼女は、永遠に一人ぼっちのままです。
幸か不幸か、「頑張った人が報われる社会」実現の道のりはかなり険しいです。
でも、報われたことを自分ひとりの頑張りのお陰と考えないことは、自分の気持ちの持ちよう次第です。
そこで太っ腹になれれば、あなたは自分の受けた「報い」に対し、ヒステリックに防衛する必要もなければ、一人ぼっちにもならないでしょう。
悪いのは、努力しないことではなく、ケチになることです。