Categories: 書評

不安だけが膨れていくのは、まだ「負けしろ」があると思いたいからだ

 安全志向が高まり、不安だけが膨れていくのは、まだ「負けしろ」があると思いたいからだ。
 「落ちるかもしれない」という不安、それは「高みにあるもの」の特権というより、「まだ高みにある」と信じたい心が招く幻想にすぎない。
 「落ちるかもしれない」と不安である限りは、落ちるだけの余地が残っているということを、暗黙に支持できる。

 本当のところ、もう「負けしろ」なんて残っていないんじゃないか。
 もう、負けたのだ。
 恐ろしいのは、負けてもまだ生きている、ということだ。

 だから、できることはまだある。生きているんだもの。

 もう負けたのだ、と悟れば、心が自由になる。
 これ以上負けないから、もう後は攻めるだけだ。不安になる余裕はない。安全を省みる余裕もない。
 安全を捨てると、心が平安になる。
 多分、そこからしか始められない。

kharuuf

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kharuuf

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