声の文化と文字の文化 ウォルター・J. オング 藤原書店 1991-10-31 |
こんなすごい本を読んでいなかった自分に驚き、今日まで悦びを残して下さった神に感謝します。
識字能力が人間の思考様式に与える変化と、「一次的な声の文化」(文字獲得以前の言語世界)における語らいと思考・記憶の特徴についての、冒険的でありながら十分な考証に基づいた試論。素晴らしくエキサイティングです。
「二次的な声の文化」(テレビやラジオなど)や、例えばインターネット上の文字交流文化については、言及が少なく、著者自身も「今後の研究が待たれる」とするに留めていますが、多くの紙数の割かれた「一次的な声の文化」の思考様式に最も興味があったため、まったく気になりません。
あまりにも面白いので、何回かに分けて取り上げてみたいのですが、実は既に、「音読すべき聖典、カルトと識字能力」が本書を読んでいる途中で思いついて書き留めたものでした。アラビア語圏の例についてほとんど言及がないのが寂しいですが、長年ひっかかっていた古い「テクスト」独特の様式について、これほど明快な解釈を与えられたことはありません。「屈折語、古い教会、意味の充溢」で触れた、古い言語に見られる「言語が言語内部から支え合う」ような構造も、「一次的な声の文化」の観点から説明できるでしょう。
驚いたのは、ジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』に言及があったことです。『神々の沈黙』は非常に面白い本ではあるのですが、古代と現代の「意識」の差について、右脳がどうだのと、安っぽい器質的な還元を試みていて、せっかくの議論が非常にインチキ臭くなってしまっています。おまけに「古代には右脳から神の声が聞こえた」云々といった主張もあり、トンデモ一歩手前、というより完全にトンデモな領域に足を踏み入れてしまっています1。
にも関わらず、『神々の沈黙』が読むに値するのは(本当に面白いのでお勧めです)、筆者自身の期待している「原因」や解釈については間違っていても、「意識」のあり様の違いについて、極めて正確な直観を働かせているからです。以前某所で「これは脳の問題ではなく、書き言葉と話し言葉の違いではないのか」ということを書いたことがあるのですが、『声の文化と文字の文化』におけるオングの主張は正にこのままで、それがわたしの思いつきの一万倍くらい精緻な形で述べられているものですから、恥ずかしいやら有難いやらで、興奮しっぱなしでした。
声の文化について最も留意すべきなのは、「覚えておく」ということです。書き言葉があれば、知識はテクストという形で保存し、必要に応じて取り出すことができますが、声の文化では記憶に留めるより他に方法がありません。
一次的な声の文化では、よく考えて言い表された思考を記憶にとどめ、それを再現するという問題を効果的に解くためには、すぐに口に出るように作られた記憶しやすい型にもとづいた思考をしなければならない。このような思考は、つぎのようなしかたで口に出されなければならない。すなわち、強いリズムがあって均衡がとれている型にしたがったり、反復とか対句を用いたり、頭韻や母音韻をふんだり、形容詞を冠したり、その他の決まり文句的な表現を用いたり、紋切り型のテーマ(集会、食事、決闘、英雄の助太刀、など)ごとにきまっている話しかたにしたがったり、だれもがたえず耳にしているために難なく思い出せ、それ自体も、記憶しやすく、思いだしやすいように型にはまっていることわざを援用したり、あるいは、その他の記憶をたすける形式にしたがったりすることである。まじめな思考も、記憶のシステムと織り合わされている。記憶を助けるという必要が、統語法さえも決定するのである。
古い屈折語が、今日的な意味での「情報の伝達」という観点からすると、異様に煩雑な活用規則を備え、性・数・格の一致等を通して似たような形が反復されるのも、「音声を記憶に留める」という視点からすると、納得のいくことです。言葉と言葉が、メッセージを伝えるというより、互いに寄りかかり合うように支え合うことで、リズム的な記憶と想起を助けているのです。
オングは、一次的な声の文化における思考と表現について、以下のような特徴を挙げています。
1)累加的additiveであり、従属的ではない
文と文がandで延々とつなげられ、重文的構造が少ない、ということです。本書ではヘブライ語聖書における『創世記』が例に挙げられています。
2)累積的aggregativeであり、分析的ではない
「兵士」と言わず「勇敢な兵士」、「王女」と言わず「美しい王女」というように、決まり文句や対比的な修飾句を多用する、ということです。書き言葉的な視点からすると冗長なばかりですが、音声にすると記憶や想起が平易になります。
3)冗長ないし「多弁的copious」
口頭の発話では、今まで論じられてきたことから注意をそらさないように、慎重に前に進む必要があります。そのためにも繰り返しが多用され、「今自分がどこにいるか」が逐一確認されるようになります。また、演説においては口ごもることが一番マズく、次へのつなぎ言葉とするためにも、言い換えや反復が多用されます。これは今日のスピーチでも見られる特徴でしょう。
4)保守的ないし伝統主義的
5)人間的な生活世界への密着
カテゴリー的思考の脆弱な一次的な声の文化にあっては、すべての知識は人間的な生活世界と密接に関係づけられる形で概念化されます。
6)闘技的なトーン
口承的な物語では、人と人が出会うときまって自らの勇ましさが自慢されたり、言葉でやりこめよう、というやり取りが始まります。これは、言語がその場に居合わせた者との関係性から切り離されてないことに由来すると思われます。
7)感情移入的あるいは参加的であり、客観的に距離をとるのではない
8)恒常性維持的homeostatic
ここでの恒常性とは「まったく変わらない」という意味ではなく、むしろ現在時の状況に合わせて変化していく、ということです。例えば、口承による歴史語りの中で、消滅した村について語られなくなったり、現在の支配者にとって不都合な歴史は消滅したり、ということです。
恒常的な語りの「型」は存在し、かつ興味深いことに、語り手本人たちは「まったく変えていない」と主張するのですが、「型」を維持しつつ要素的には入れ替わりがある。正にホメオスタシスです。
絶対的な事実より、相対的な関係性が重視される、とも言えるでしょう。
9)状況依存的situationalであって、抽象的ではない
ここが非常に面白かったのですが、あまりに長いので別エントリに分けます。
ここまでだけからでも、連想しないでいられないのは、古い宗教的テクスト、特にクルアーンです。
ヴォルテールはクルアーンを読んで「こんなひどい書物はない!」と放り出したそうですが、クルアーンの翻訳を読んで退屈に感じない人は、むしろ近代的読み書き教育の洗脳が十分でないと言えるでしょう。一般的な日本人が手にしたら、十中八九、冗長で退屈極まりないテクストと感じるかと思います。
一方で、本物のクルアーンの詠唱を聞けば、イスラームについてよく知らない人でも独特の美しさを感じることができるでしょうし、音読、暗誦するようになると、不思議なくらい自然に口をつき、心地よいリズムに揺られるのを体験できます。
それも、クルアーンが上で挙げたような口承物語の特徴を悉く身につけているからでしょう。翻せば、書き言葉に起こして、さらに翻訳など加えてしまうと、繰り返しばかりがやたら多く、ストーリー性がなくて、人称すらコロコロ変わる、支離滅裂な文章としてしか見られないのです。
アラビア語の「ネイティヴ」であっても、フォスハー(正則アラビア語)は学校で学ぶものですし、そもそもムスリムが多数を占める地域のアラビア語圏の子供であれば、「正しいアラビア語」を身に付ける前に、程度は様々にせよ、音としてのクルアーンを教え込まれるのが一般的でしょう。そのファーストコンタクトがあるお陰で、その後読み書き能力を身につけたとしても、「読み書き的」なクルアーン読解をしないで済んでいるのではないか、と推測されます。