中国の揚子江にかかる「南京長江大橋」は、鉄道と道路が一体となった全長6772メートルの橋だ。(…)一九六八年に橋が開通して以来、ここから千人以上が身投げし、自殺している。自殺成功率百%の橋でもある。この橋に三年前から三十代中頃の中国人青年が週末にやって来る。自殺しようとする人を説得し、橋から身投げしようするのを止めるためである(…)ここまでなら「美談」である。ところが、ある日、青年がマスコミの取材で話した言葉に痛みを感じた。インタビューの最後に彼の表情が変わり、「自殺する人は卑怯な人間、無責任な人です。自分のことしか考えない…私の両親も私が五歳の時に自殺しました」と、声を震わせたのである(…)青年がこの仕事をはじめたのは自殺志願者を救うというよりも、残された家族たちを救うためではないだろうか。
「ここまでなら『美談』である」と断って続けられるということは、そこから先は「美談」ではない、ということでしょう。
純粋に命の純粋さゆえに自殺を止める。だからこそ「美談」であって、自殺の及ぼす実際的な問題を理由に止めるのだとしたら、途端に話はプラクティカルになってしまい、「美談」に求められる無償性とでもいうようなものが汚される、ということかもしれません。
いずれにせよ、おそらくはこのテクストの筆者自身も意識しているように、この話の真髄はむしろ「美談」ならぬところにあります。
日本は大変自殺の多い国で、国家的にも自殺を止めるキャンペーンを行ったりしているようですが、もし自殺者を説得するとしたら、「命の尊さ」だけではどうしようもないでしょう。「わたしの命をわたしがどう使おうが、わたしの勝手だ」と言われてしまえばお終いです。確かにその通りです。
そこで闇雲に「勝手じゃない!」というのが日本的な止め方なのかもしれませんが、「いや、あなたのものじゃないよ。一部はあなたのかもしれないけれど、一部は違う」と断言してしまった方が、説得力があるように思います。
それでも「自分は独り身で家族もいない。仕事もクビになった。わたしが死んでも誰も困らない。むしろ社会のお荷物が減って有難がられるだろう」という人がいたら、「残された家族」的な説得も届きません。この人の言っていることも事実だからです。
ここで道が大きく二つに分かれるように感じます。
一つは、「そこまで言うなら好きに死になさい」というもの。これはこれで尤もです。誰の迷惑にもならないなら「死ぬ権利」くらいあるだろう、というもので、個人的にも割と共感を持ちます。後述する神様の領域がないのだとしたら、迷いなくこの選択肢を支持します。
もう一つは、「それでもダメだ、とにかくダメななんだ!」というもの。この「ダメ」にも二通りあるのですが、おそらく大方の日本人が行っているのは「とにかくダメ」という程度のものであって、正直、あまり納得できるものではありません。そんな闇雲な止め方をするくらいなら、安楽死施設でも作ってあげた方がずっと優しい気がします。
「ダメ」のもう一つは、そもそも命が「わたしだけのもの」でない時、(「家族」等は既に選択肢として捨てられてしまっているので)他の所有者として「神様」が来る場合です。
「神様」の所有具合の説明にも色々あると思いますが、イスラーム的には原罪はなく、ただわたしたちの存在は神による「お返し」不能な純粋贈与であり、「購うべき罪」も負っていない以上、わたしたちは生まれながらにして「神の奴隷」です。奴隷ですから、丸ごと神様の持ち物です。神様がお小遣いをくれれば、それくらいは使って良いでしょうが、基本的に全存在が「他人の持ち物」です。だから、勝手に処分したりしてはいけません。
神様を信じるかどうか、という大問題を丸ごと棚上げして、最後の理屈だけ取り出すなら、とりあえず「ダメなものはダメ」というよりは、いくらか理由があります。多くの宗教は自殺を禁忌としていますが、何らかの形で「命は神様のものだから」という理屈が入っているのではないかと思います。
無条件に自殺を止める、というのは「美談」かもしれませんが、あまり力を持たない。そればかりか、時に危険ですらあります。
仮に、非常に献身的な人物が「あなたは生きているだけで価値がある」といって、自殺者を止めたとしましょう。それは結構なのですが、生き残った後、彼または彼女は、この止めた人物に対し強く依存してしまう可能性があります。むしろ、そこで誰かを必要としているからこそ、自殺を止められたと見るべきでしょう(止めても死ぬ人は死ぬ)。リストカッターのファンタジーに自ら飛び込んでしまったかのようです。
わたし自身にリストカッター的性質があり(実際に切ったことはない)、また一時期強烈なリストカッターに付きまとわれていたことがあるので(笑)、多少理解ができるのですが、自殺しないにしても、自殺しない理由が閉じたファンタジーの中で一人の人間に集中してしまうような止め方は危ないでしょう。実際には「一人」でも良いのですが(「一人息子のためにも絶対死ねない」)、その関係性の中に他者の審級が入り込む余地がないと、合わせ鏡の地獄に陥る恐れがあります。平たく言えば「世間」的な基準が、関係性の中に入る可能性を多少なりとも残しておく必要があります。
中国の青年の止め方は、その一つの好例に見えます。自分が自殺志願者だとしたら、ふと我に返りそうです。この「我に返る」のがすごく大切です。リストカッターが「止めてもらった」とき、そこには「我に返る」瞬間がありません。同じファンタジーで死ぬか生きるかの違いです1。
中国青年の止め方はでは、自殺に向かわせたファンタジーがそのまま青年に跳ね返ったりするのではなく、第三者の視線が入るのです2。
ただ、「残された家族」のような顔の見える「他の所有者」ではなく、例えばマクロ経済的な一因子に還元された上で「社会的な損害」を主張されたとしたら、やはりガッカリして飛び降りるでしょう。
「家族」ならまだ止められるかもしれませんが、同じことを「社会」とか「会社」とかで言われたら、途端に力を失っていきます。
「神様」というのは、すごく遠い一方で、家族よりも近いものです。「汝の頸の血管よりも近い」ですから、わたしたちの生は神様に満ち満ちています。おまけに死んだ後のことまで神様次第です。
家族は所詮人間ですから、残された家族が困るならむしろ上等だ!という関係になることもあるでしょう。しかし、神様は絶対裏切りません。神様は最初から最後まで何も答えないからです。
「神様」というのは、「みんな」ということも可能です。「全体としての大文字の他者」です。だから、家族のない人でも神様は見ている。
しかし実は、神様はこれだけでは語りきれません。「全体としての大文字の他者」だけではないのです。少なくとも、イスラームにおける神は違うと思います。
神様は絶対的裁定者であると同時に、とてつもなく実体感があり、膝の上の猫と同じくらいフワフワに暖かいです。このフワフワ感がなかったら、一歩間違えば「会社」と同じくらい無力になるはずです。
そんなものすごい神様なので、受け入れるか否かはちょっと敷居が高いです。
ただ、この敷居も、一般に思われている程絶対的なものではなくて、「神様なんて本当にいるのかな、いくらお祈りしても何も答えてくれないよ」と迷いながら、「でもなぁ」と考えているのは、既に信仰の始まりのように思います。というか、むしろそうやって迷いながらとにかく神様のことを考えて生きていく、というのが本当の信仰でしょう。迷いなく確信していたら「狂信」です。聖書もクルアーンも「作戦指令書」などではありません。
もっと根本的なことを言えば、受け入れるとか受け入れないとか、信じるとか信じないとか、そんな選択肢はないでしょう。選ぶのは神様ですから、もう全部決まってしまっているのではないでしょうか。疑いながら関係している時、もう知らない間に神様を信じてしまっています。
脱線しまくってとりとめもなく書いてしまいました。別に結論はありません。
ただ淡い希死念慮を抱かない日がほとんどなく、今日まだ死んでいないとしたら、それは神様だけが理由だろうなぁ、とぼんやり考えています。行く末はもう決まっていて、この上自殺の罪を犯したところで何も変わらないのかしれませんが、きっと理由があってまだ生かされているのでしょう。
追記:
某所で、あるムスリム(日本在住だが日本人ではない)が、「日本は自殺が多いが、その点ではイスラームは日本に貢献できる」といった趣旨の発言をする場に居合わせたことがありますが、この考えには少し違和感を抱きます。
もし日本がイスラーム化したら、間違いなく自殺は減るでしょうが、「自殺を減らせるからイスラームは素晴らしい」というならちょっと違う話ですし、そもそも大きなお世話です。
まず「死にたいなら死なせてやれ」というのが大前提としてあって、その上で神様が来るならわかりますし、わたし自身はそういう感じ方をしています。
一番気持ち悪いのは、中間にある「とにかく死ぬのはダメだ」という言説です。それくらいなら「家族のために」とでも言うほうがずっとマシですし、わたし個人は家族のために生きようとは思いませんが、神様のためになら生きられるので、そう思うことにしています。