「それはあなたの声ではないですか」
「そんなはずはありません。わたしは声が出ないですから」
いかにして「狂人」の言葉は、真理を射当てているのか。
確かに、彼または彼女に、自由に語れる言葉などない。人間たちが「彼の言葉」としているものは、他者の言葉の共鳴にすぎない。 だがそれでも、わたしたちはやはり「彼の言葉」と言うのだ。正にその言葉を引き受けるべき者として、わたしたちは呼び出されのだし、その呼びかけに振り返ってしまったのだから。
だから、「それはわたしの言葉ではない」ではなく「わたしの声ではない」ということは、決定的だ。
声が聞こえる時、介入しているのは言葉ではなく声の次元、物質的な水位にあるものだ。語られている言葉の内容ではなく、声そのものが掠め取られているということが、その状況を特徴付けているのだ。
そう、声が聞こえたとしても、わたしたちは「それはわたしの言葉ではない」「それはわたしの本当に思っていることではない」とは言えない。正確には、その言葉はまったく正常に言語経済に回収されてしまうが故に、物質的神を導入することで現実的去勢を執行する支えにはならないのだ。「いや、わたしの考えているのはそうではなくて・・」。それは正常な神経症者の言葉である。
だから、損なわれているのは声でなければならない。
声は、確かに出ないのだ。
音がする筈のないところで、音がするし、その音は内容以前に声であるから、言表内容の如何によって否定されることがないし、またそのメッセージを拒否することもできない。なぜなら、声のメッセージはまったく、言葉になっていないからだ!